はっと気がつくと、あたりは薄暗かった。
どうも今日は“気がつくと薄暗闇にいる”という巡り合わせの日らしい、・・・。
ぼんやりとそう思いながら首を巡らすと、俺が寝ている布団の横にもう一組の布団を敷こうとしている、志筑の姉の姿があった。
「あ、俊輔くん、大丈夫?気持ち悪くない?」
目を開いている俺に気付いた志筑の姉が俺を覗き込んで、訊いた。
「うちのおじいちゃん、お客さんが来るといつもああなの。ごめんなさいね、本当に」
「いえ・・・、大丈夫です。逆にこんな遅くまで、すみません・・・帰ります」
と、俺は言ったが、志筑の姉は首を横に振る。
「お母さまは11時頃に帰られるって聞いていたから、母がおうちに連絡をしたわ。ちょうど帰ってらして、そういうことなら一晩お世話になりますって。
帰ったらきっと、怒られちゃうわね。もううちに来たらダメとか、そんなことになっちゃわないかしら?」
「・・・いえ、そんなことはないと思いますが・・・」
と、俺が言うと、
「・・・本当?」
と、志筑の姉は心配そうに重ねて訊いた。
俺は頷く ―― 母は基本的におっとりとして世間知らずのところがあるので、俺がお酒を飲み過ぎたと聞いても心配するだけで怒ったりはしないはずだった。
ましてや知人の家に遊びに行くのを禁じて俺の行動に制約をかけようなどということを、考えつきもしないだろう。
俺の頷き方がきっぱりとしているのを見て、志筑の姉は安心したのだろう、それなら良かった。と言って微笑み、布団を敷く作業に戻った。
夜の仕事をし、男の出入りもなくはなかった母を持つ俺を、家族と関わらせたくないと言われたり、匂わせられたりしたことは、これまでにもよくあった。
が、逆に遊びに来られなくなってしまわないかと心配されたのは初めての経験だった。
それを意外に思うのと、俺の隣にもう一組布団を敷こうとしているのを訝しく思う俺を見て、志筑の姉は声をひそめ、
「今日は稜もここで寝るんですって。あの子、人と寝るの好きなのよ。普段はしらっとしてみせてるけど、実は物凄く寂しがりだから、稜は」
と、重大な秘密を打ち明けるように、言った。
「・・・そうなんですか?」
と、俺は言った。
「そうそう。私ね、ついこの間婚約したんだけど・・・稜ったら私の相手がどうも好きになれないとか言って、未だに賛成しかねるって顔してるの。あれもきっと、寂しいのよね。そんなんじゃないって、本人は言ってるけど」
と、志筑の姉は悪戯っぽく笑い、それを聞いて俺も笑った。
俺が笑うのを見て、志筑の姉は勢いづいたように、続ける。
「稜は昔、私の後をひたすらついてくるような子だったの。年が少し離れているせいもあったんでしょうけど、夜中にトイレに行くのも、私を起こしていたくらいだし・・・ ―― 」
「姉さん、いい加減にしてくれ。一体いつの時代の話をしてるんだよ、そんなの遙か昔の話だろ」
ぴしゃりと音を立てて襖を開けて部屋に顔を出した志筑が姉の話を遮り、どことなく機械的な声で言った。
そして手にしていた枕とタオルケットの類を投げつけるようにして、再び開けたのと同じやり方で、襖を閉めてしまう。
志筑の荒々しい足音が遠ざかって行くのを確認してから、志筑の姉は懲りた風もなく小さく笑い、
「あれも照れてるのよ。寂しがりだけじゃなくって、もの凄い照れ屋でもあるの、あの子。からかうと、面白いのよ」
と、言って志筑の投げたタオルケットと枕を所定の位置に置き、立ち上がる。
「じゃあ、ゆっくり休んでね ―― ああそうだ、俊輔くん、身体の調子は大丈夫?」
「え?・・・ああ、それほど酔ってはいません。眠くなっただけで」
「ううん、そうじゃなくて・・・ほら、あんなに雨に濡れてたから、風邪っぽいとかないかなって」
「それは大丈夫です。そんなに凄い雨でもありませんでしたし」
「そう、それならいいけど ―― 11月の雨って、冷たいから」
部屋の戸口のところで襖を半分開け、志筑の姉は呟くように言った。
そしてそれから彼女は、おやすみなさい。と言って静かに襖を閉じた。
その後少しして、志筑がペットボトルを手に部屋に戻ってくる。
「ほら、水。飲んでおいた方がいいぞ ―― ったく、止めたのにあんな飲むんだもんな」
と、志筑はぶっきらぼうに言った。
このように志筑稜の口調や態度が時々、ふいにぶっきらぼうというか、機械的になることが、学校でも時々あった。
俺は常々、彼のそういうところがどうにも鼻について、仕方なかったのだ。
だがそれが実は虚勢とか、無理をしているとか、照れ隠しなのだとすると ―― 受ける印象は全く違ってくる。
だから俺はただ小さく肩をすぼめ、差し出されたペット・ボトルを受け取る。
受け取った水を俺が飲み干すのを見てから、志筑は立ち上がって部屋の電気を消した。
「最初に言っておくけど、明日はいつもみたいに遅刻なんかさせないからな」
布団に横たわりながら、志筑がどこまでも志筑らしく、言った。
そのいかにも学級委員的台詞に、俺は暗闇に紛れて思い切り顔をしかめる。
今日から先、志筑に対する見方が変わってゆくとしても、こういう“お堅い”部分は苦手なままだろう、と思った。
そしてそう思いながら、俺はにやりと笑う。
「分かってるよ ―― ところで志筑、夜中に便所に行きたくなったら遠慮なく、起こしていいからな」
俺が笑いながらそう言い切らないうちに、鋭い蹴りが、わき腹に突き込まれた、・・・ ――――
「筆頭。そろそろ着きますよ」
ふいに声をかけられて、俺は目を開ける。
「 ―― 寝てました?」
ゆっくりと首を巡らした俺を見て、永山が言った。
俺は腕を上げて時計の針の位置を確認してから、その手で両目を押さえる。
「・・・、ああ、一瞬な ―― 夢まで見た」
「夢?」
「そう、昔の・・・、大昔の夢だ」
「へぇ、・・・」
興味があるともないともつかない、曖昧な言い方で、永山は相づちをうつ。
「お疲れなんですよ。ここ2日ばかり、ほとんど眠られていないんですからね」
助手席に座っていた三枝が、ちらりと後部座席の俺を見て言った。
「明日は開けてありますから、ゆっくりとお休みください」
「そうそう、適当に女を漁りに出掛けたりしないで、おとなしく骨休みして下さいよ」
茶化すような口調に心配の気配を混ぜ込んで永山は言い ―― それから、小さく舌打ちをする。
「ああ、くっそ、降って来やがった」
その声に車窓から外を見ると、確かにぱらぱらと空から雨が落ちてきていた。
「・・・豪さん、これから予定があるのですか?」
「ああ、今日中に本家に行かなきゃならない。
晴れている日もそうだが、天候の悪い時の本家訪問は更に気が滅入る」
と、永山はため息をついた。
「特に11月の雨は、冷たいから、・・・」
と、俺は夢の中で聞いた台詞を、呟いてみる。
「 ―― え?何か言いましたか?」
一瞬の間を開けて、永山が訊いた。
俺は黙って首を横に振り、車窓から視線を外して背中をシートに沈め、目を閉じる。
妙な夢を見たものだ。
忘れていた、忘れたと思っていた、遠い記憶 ―― 志筑稜。そして、その家族たち。
彼らは今頃、どうしているのだろうな、と俺は思う。
きっと何も変わっていないのだろう、とも思った。
そう、恐らく今でも一人の祖父は将棋の相手に負けては不機嫌になり、かといって手加減すれば不機嫌になっているのだろう。
2人の祖母と母親は不特定多数の来訪者の為に大量の食事を作り続けているのだろうし、もう一人の祖父は相変わらず隣に座った人間のグラスに驚異的な自然さで酒を注ぎ続けているに違いないし、志筑の姉はあの切なくなるほどに魅力的な微笑みで周りを魅了し続けているだろうし、そして、 ―― 稜、・・・・・・
そこまで考えたところで、俺は閉じていた目をさらにきつく閉ざし、思考を停止させる。
不思議だ、と思う ―― 極道の世界に身を投じて10年。
過去のつれづれを全て忘れたように、当然彼らのことも忘れていたはずだった。忘れたと思っていた。
証拠にこの10年の間、彼らとのことを含めて、過去を思い出した経験など、ただの一度もない。
それなのにふと気まぐれのように彼らに思いを馳せた途端、溢れるように、未だ色あせない、原色の色彩を纏ったような鮮やかさでもって、彼らと過ごした時間が ―― そこから発せられていた、否応なく人を巻き込むような激しいまでの暖かさも一緒に蘇ってくるのは、不思議としか言いようがなかった。
だがそれも全て、忘れるべきなのだ。
強く強く、俺は思う。
もう二度と、彼らに会うことはないのだ。
例え会えるのだとしても、彼らに会う資格は自分にはもうない。
いくら懐の深い彼らでも、今の俺の状況を見たら、眉を顰めるに違いなかった。
だから俺は思考のあちこちに散った、未だ光を失わない彼らに関する記憶の欠片をかき集め、それらを小さく小さく圧縮し、記憶の奥底の引き出しに放り込んで厳重に鍵をかける。
忘れるんだ、と俺は再び、自分に命じた。
その命令に答えるものはない。
自分の手すら見えないような記憶の墓場の奥底で、引き出しの奥に押し込まれた記憶の残骸は1、2度微かに瞬くように辺りに光を投げかけ ―― 力尽きるように暗闇に溶けて、やがて、消えた。
―――― NIGHT TRIPPER 番外編 November Rain END.