November Rain

「君・・・俊輔くんと言ったかね」

 食事が始まるや否や、俺の右手に座っていた志筑の祖父が、静かな口調で確認した。
 それに対して俺が頷くと、彼は脇に置いていた焼酎の一升瓶を取り上げ、

「よく来てくれたね。まぁこれ、よければ飲みなさい」

 と、言って当たり前のように俺の前に置かれていたグラスに、勢いよく焼酎を注いだ。
 俺は礼を言い、勧められるままにグラスを持ち上げる ―― お酒は20歳すぎてから、という法律の存在を知ってはいたが、お世辞にも品行方正に生きてきたとはいえない俺だった。
 これまでに幾度か、アルコールを口にしたことはあったし、好意で注いでくれた1杯や2杯のお酒を断る必要もないと思ったのだ。

 しかも飲んでみるとその焼酎は、少々癖はあるもののしっかりとした腰のある、非常に美味しい焼酎だった。
 その感想を思ったまま口にすると、志筑の祖父は、そうだろう、そうだろう。とまるで自分の手柄を誉められたかのように、さも嬉しそうな様子で頷く。そして俺のグラスに追加して焼酎を注いだ。

「初めてうちに来てくれたお客さんを歓迎する意味で、いい奴を開けたんだよ ―― 君はなかなか、よく分かってる」
「ったく、何を言っているんだか、親父はただ単純に自分が飲みたいだけだろうが ―― 俊輔くん、無理して飲まなくていいからな、親父は色んな理由をつけては、飲む口実を作りたいだけなんだ」
 と、志筑の父親が苦笑混じりに顔をしかめる。
 それを見て周りは笑い、志筑の祖父は特に反論もせず、一升瓶を片手に静かに微笑み、今度は自分のグラスになみなみと焼酎を注いだ。

 それからも志筑の祖父は自分も食べて飲みながら(彼がグラスを干して行く様は、実に小気味よいほどだった)、俺のグラスにも細やかに焼酎を注いできた。
 そのやり方は押しつけがましいところのまるでない、実にスマートかつさりげなくも自然なやり方で ―― あたかも自分が全く飲んでいないような気分になる。

「 ―― 辻村。本当に、無理に飲まなくていい」
 やがて俺の腕を強く引くようにした志筑が、俺の耳元に唇を付けるようにして言った。
「付き合って飲んでたら、潰される。グラスが減らなければ、注がなくなるから」
「そうそう、わんこそばと同じよ、だから・・・ ―― 」
 その隣に座っていた志筑の姉も、眉間にぎゅっとしわを寄せて言いかけたのだが ―― そこで俺の斜め前に座っていた志筑の祖父(将棋をしていた方だ)がふいに口を開いた。

「ところで俊輔。言おうか言うまいかさっきから悩んでいたんだが・・・」

 初対面の相手に名前を呼び捨てにされるのが俺は昔から嫌いなのだが、彼の言い方はもう一人の祖父の焼酎の注ぎ方同様、自然すぎて嫌だと思う暇がなかった。
 結局それを皮切りに、志筑の家の誰もが(女性陣を除いて)俺を呼び捨てにするようになり、それにも俺は全く違和感を覚えなかったのだが ―― それは後日談になる。

 志筑に腕を捕まれたまま顔を上げた俺に、
「その箸の持ち方、なんだそれは」
 と、将棋の祖父は言った。

 その視線は俺の右手に注がれており、その視線に誘導されるように、俺は自分の右手を見る ―― 確かに先程から彼が俺の手元をちらちらと見ていたのを、なんだろうとは思っていたのだ。

「・・・なにって・・・、ええと、・・・?」
「いいか、箸の正しい持ち方は、こうだ、こう」
 ぴしりと空間に箸を持った手を掲げて、彼は言った。
「さあ、この通りに箸を持ってみなさい」
「ちょっとおじいちゃん・・・、いいじゃない、今はそんなこと・・・」
 と、これまで通りに志筑の姉が助け船を出してくれようとしたが、将棋の祖父は厳しい顔をして志筑の姉を見て、
「なにを言っているんだ、祥子。日本人たるもの、箸をまともに持てなくてどうする。矯正が1日遅れればその1日分、俊輔が他所で恥をかくことになるんだ。
 さあ俊輔、いいか、人差し指はこう。中指はこう。そしてそこに親指を添えて、こう持つんだ ―― やってみなさい」
「・・・こうですか?」
「そうそう」

 と、将棋の祖父は頷いてくれたが、その持ち方をすると、まともに食事がとれない。

「・・・あのー・・・、なんだかうまくいかないんですが」
 幾度かあれこれ食べ物を持ち上げる努力をしてみてから、俺は躊躇いがちに言った。
「もちろん、最初から上手くはいかん。だがその持ち方に慣れる頃には、見違えるほど綺麗に箸が使えるようになっているだろう」
 自信たっぷりに、将棋の祖父は予言した。

 その後もついつい元の持ち方で箸を使ってしまうたびに飛んでくる将棋の祖父の叱責と、
 その度湧き上がる、最初からそんな風に言わなくても、いいじゃないの!という志筑の家族の声と、
 入れ替わり立ち替わりに現れては夕食を摘んで消えて行く、よく分からない人々に関する紹介と挨拶の嵐と(この大量の食事はそういう人々の為でもあったらしいが、俺は正直それどころではなかった)、
 そして横からどんどん注がれる焼酎と、・・・ ――

 それらの膨大な音と純度の高いアルコールの渦の中心で俺の情報処理能力は静かなる破綻をきたし、抗う間もなく、俺の意識は混濁の一途を辿っていった ・・・――――――