月に哭く

2 : 甘い芳香

 アーディティア神殿に2人が戻ってみると、いつもは落ち着いた静寂が支配するその場所には、混乱した空気が満ち満ちていた。

「何の騒ぎなの、これは・・・」
 と、プリティヴィーが不安気に言いかけた時、神殿の奥から人影が転げるように飛び出して来る。

「ディアウス!!」
 と、彼は喜びと心配が入り混じった複雑な表情で叫んだ。

「スーリア、一体何が?」
 と、ディアウスが尋ねる。
「パルジャが意識を取り戻しそうなんだ。アディティー様が君を呼んでる」

 スーリアのその言葉にさっと表情を変えたディアウスは、小走りにその場を後にした。

 足早にその後を追いながら、プリティヴィーはちらりと空を見上げ、
「興奮するのは分かるけど心は落ち着けてね、スーリア。この間みたいのはもうゴメンよ」
 と、言った。

 太陽神の神名(しんめい)を持つ彼が激しい喜怒哀楽を示すたび、天候に影響が及ぶのは有名な話だった。
 そして彼の喜怒哀楽を映して天候が荒れるたび ―― 太陽が幾日も沈まずにいたり、雨が何週間も降り続いたりする度に ―― 荒れた大地を整えるのは地神であるプリティヴィーの役目であった。

 荒れきった大地を見渡して怒りに震えるプリティヴィーと、その横で身を低くして謝り倒すスーリア・・・という図は、アーディティア神殿では見慣れた光景となっているのだ。

 スーリアは恐々と横目でプリティヴィーを見やる。
「ああ・・・努力する・・・けど・・・。」
 自信なさそうな弱々しい声を聞いて、思わずプリティヴィーは笑い出す。
「この間の大雨による洪水の件は、次の出陣で大きな手柄を立てたら帳消しにしてあげてもいいわよ」
「それならすぐに帳消しに出来るかも知れない。俺、今から出陣することになったから」
「えっ?暫くこっちで指揮をとる予定じゃなかったの?」
「パルジャが深手を負った時、戦況がかなり緊迫してたらしいんだ」
 つと険しい表情になって、スーリアは続ける。
「しかも一緒に前線に出てたヤマからの報告が、ここ数日間滞ってるだろう?それがちょっと気になって来て・・・これから準備して、すぐに出陣する」

 そこでパルジャの自室前に着いた2人は、立ち止まって向かい合った。

「・・・もう何日も前の話よね、それ」
「ああ、でもヤマについては心配してないよ、俺は。死者の王の神名を持つ者が ―― 死を司る神がそう易々とやられる訳がない。とにかく俺も、あの大洪水の埋め合わせが出来るように手柄立ててくるから」

 口元だけで笑って見せ、スーリアは部屋の戸を開ける。
 プリティヴィーは戸を支えて立つスーリアに深く頷いて見せてから、パルジャの自室に入った。

 その室内は、芳しい空気に満ちていた。

 その芳香は身体が弱っている者には勿論の事、周りにいる人々の“気”をも高めるようだった。
 ディアウスはプリティヴィーがそっと横に置いた籠の中から一際鮮やかな深緑色の薬草を選び出し、水を張った水盤に投入する。
 次いで水面に手をかざして何事か呟くと、部屋に満ちた芳香は更にその濃度を増した。

 息を詰める様にして皆が見守る中、ベッドに横たわるパルジャの瞼が小刻みに震え、ゆっくりと開かれた。
 幾度かのまばたきの後、その視線はひたとディアウスに注がれる。

「ディアウス・・・ ―― 」

 かすれた声で名前を呼ばれたディアウスは微笑み、水盤から掬い取った黄金色の水を数滴パルジャの口に含ませた。
 みるみる内に彼の瞳に力強い光が宿るのを見て、周りにいた人々は安堵の吐息を漏らす。

「苦しくはない、パルジャ?」
 ディアウスの反対側の枕辺に座っていた女神が未だ青ざめ、震える唇で尋ねる。
 顔をそちらに向け、パルジャは微かに頷いた。
「はい。ご心配をおかけして申し訳ありません、アディティー様」

 意外にしっかりとしたその声色を聞いて、女神は両手で顔を覆った。
 良かった、良かった、と呟きながらすすり泣く女神が燃えるような緋色の髪をした女神と共に部屋を出て行く。
 緋色の髪をした女神は戸口の所で肩越しに振り返ってから、姿を消した。

 その姿が完全に扉の向こうに消えるのを見届けて、パルジャは再びディアウスを見る。
「ウシャスは私と共に帰還したのか?」
 先程の物とは違う香りの薬草をすり鉢に入れながら、ディアウスは頷く。
「はい、深手を負ったあなたと一緒に」
「・・・それは・・・、傷が癒えたら盛大にどやされそうだな・・・」
 と、パルジャは溜め息混じりに言った。
 うんざりした調子を隠そうともしないその声を聞いて、ディアウスは小さく笑い声を上げる。
「確かにそれは覚悟した方がいいかも知れません。暁の女神は戦場で、勝利の女神としても謳われていると聞きますし ―― でもウシャスも帰った当時は、それはそれはあなたの事を心配していました」
「・・・戦況を考えれば、どんな傷を負っていても私はここへ帰ってくるべきではなかったのだ、しかし・・・。ああ、そういえば向こうでも携帯していた神酒(ソーマ)を飲んだけれど、やはり君の作るものとは違うね。これを続けて飲めるなら回復も早いだろう。一刻も早く前線に戻らねば」
「大丈夫、スーリアとウシャスがこれから直ぐに前線に向かうと言っていましたから」
 細かく砕いた薬草をパルジャの口元に持っていきながら、ディアウスは言った。
「あなたが戦の事を考えるのは、受けた傷が完全に癒えてからの話です。
 さあ、これを飲んで身体を休めなければ・・・飲めますか?」
「眠り薬かい?」
 顔をしかめながら少し上体を起こして、パルジャは聞いた。
「そう、それと傷を癒す薬です」
 差し出された薬を飲んでから、パルジャは再びベットにぐったりと身体を預けた。
 その身体に布団をかけようと伸ばしたディアウスの手を、パルジャが握る。
「眠ってしまう前に・・・」
「・・・はい?」
「傷を負った時・・・アスラ神群の悪魔に切りつけられた瞬間・・・もう二度と君に会えないかと・・・私は・・・」
 握られた手を包み込むように両手で握り返し、ディアウスは微笑んだ。
「大丈夫、私はここにいます。次に目覚めた時にはもっと気分が良くなっているでしょう。
 ・・・さぁ、今は眠って・・・」

 ディアウスの柔らかく、甘い声に誘われるように、パルジャは目を閉じた。

 その光景を少し離れた所から見ていたプリティヴィーは肩を竦め、
「パルジャってば普段は真面目ぶってるくせに、あたし達のいる前でよくあんな台詞を言えたもんよね」
 と、隣に立つ祈祷神ブラフマーナに囁いた。
「本当にね」
 ゆるいウェーブのかかった長い銀髪を後ろに払い、小さくあくびをしながらブラフマーナは答える。
「私だってここ毎日、夜通し祈り続けてたって言うのに・・・感謝の目配せすらなしよ」

「っつーか、全く周りが見えてねぇんだよ、パルジャの奴」
 壁にもたれるように座る火神マニウが、2人を見上げて言う。
「ディアウスに関しては元々、100パーセント見境ないもん、あいつ」
「・・・まぁ、何はともあれ、持ち直してくれて良かったわ。一時はどうなることかと思ったもの」

 苦笑の中に明らかな安堵の色を覗かせたブラフマーナの言葉を聞き、3人は視線を交わして頷きあった。