3 : 分け合えない重荷
パルジャが完全に眠りについたのを確認してから、ディアウスは握られた手をそっと外し、静かに立ち上がる。
「アパーム、ナパート」
ディアウスが小さく名前を呼ぶとカーテンの向こうから2つの人影が現れ、ディアウスの足元に静かに跪いた。
“水の子”の神名(しんめい)を持つ彼らは天神ディアウスの守護神であり、常に陰ながら主を守る者達であった。
「暫くパルジャに付いていなさい。神名の属性が同じ人が付いていた方が、少しは回復が早いから」
それを聞いた火神マニウが、慌てて立ち上がる。
「うわ、そうだった、そうだった!心配だったもんだからつい長居しちまった」
慌てて部屋を飛び出すマニウの後を追うように、2人の女神とディアウスも部屋を出る。
廊下からは、深紅の装束に身を固めた一群と、それよりは少し明るい赤色の装束に身を固めた一群が、入り混じって東へ向かってゆく様子が見えた。
「ウシャスとスーリアはもう出陣したのね。相変わらず素早いこと」
と、ブラフマーナが言った。
「雨神が暫く出陣できないんだったら、俺が出てもいいんだよなぁ」
と、マニウが呟く。
「まだ肩の傷が癒えていないのだから、先走ってはいけない、マニウ」
と、ディアウスは逸る火神の腕を掴んで言った。
「分かってるって。でも・・・状況が悪い方へ悪い方へ流れて行ってるのがどうしても気になって・・・。
ディアウス、何か“見えて”ないのか?」
「・・・戦況について、私が見えることは何もないのです。こんな大事な時に役に立たない能力など、何の意味もありはしない、・・・」
ディアウスの独り言めいた物憂げな返答を聞いたところでようやく、マニウは以前より皆から、ディアウスにこういった問いを投げないようにと、散々注意されていたことを思い出す。
慌てて謝りかけたマニウだったが ―― 謝罪の言葉を口にする前にプリティヴィーに思い切り足を踏みにじられ、ブラフマーナに肘を強く抓られ、小さく呻いた。
その呻き声に顔を上げかけたディアウスの視界を身体で遮りながら、2人の女神はその腕に腕を絡める。
「ところでディアウス、どうしてパルジャの想いに答えてあげないの?」
「そうよ兄様、兄様にベタ惚れな人なんていーっぱい・・・それこそ星の数ほどいるわけだけど・・・ねぇ?」
「そうよ、パルジャみたいに格好良くて強い人っていないわ。アディティー様付きの女官達なんて、羨ましがって狂わんばかりだって言うじゃない」
「優しいしねぇ、パルジャ。まぁ特に兄様には、ってのはあるけど ―― それなのに兄様ったら、いつもはぐらかしてばかりで」
笑いさざめきながらディアウスを連れて去ってゆく2人の女神の後姿を見送りながら、マニウは抓られた肘をさすり、
「女って怖い・・・」
と、恨めしそうにひとりごちた。
戦況の悪さはやがて、アーディティア神殿にいる戦神(いくさがみ)ではない神々にも色濃く伝わってくるようになった。
毎日毎日、傷を負った人々が神殿に担ぎこまれ、名高い神名を持つ神の討ち死にの報がもたらされるのでは、それも当然の事だった。
どす黒い不安が渦巻く中、傷の癒えきらない戦神までもが続々と前線に出てゆく。
必死でそれを止めるようとするディアウスの顔色は日に日に悪く、声は弱々しくなっていった。
「兄様、少し休んで、お願いだから。顔色が酷く悪いわ」
「休んでなんかいられない」
呻くように、ディアウスは言った。
「みんな、みんな、戦っているというのに ―― 私だけ休んでなど、いられるはずもない・・・!」
「でも、今兄様が倒れたら」
兄の腕に縋るようにしながら、プリティヴィーは言う。
「誰があんなに効力のある神酒(ソーマ)や薬を作るの?本当に少しでいいから、横になって・・・」
「いや、横になどなっていられない・・・!ああ、何故 ―― 何故私には必要な事は何一つ見えないのか ―― 敵の動きが少しでも分かれば、戦況が変わるかもしれないのに・・・!!」
自分のふがいなさを責める兄の悲痛な叫びに対して、妹はもはやかける言葉もない。
兄が様々な事を背負い込んでいるのが手に取るように分かっても ―― いくら姿形がそっくりであっても ―― その重荷を分け持つことは決して出来ないのだ。
既に、気休めの言葉をかける状況でもなかった。
「休まなければいけない、ディアウス」
後ろからふいにかけられた声に、きょうだいは愕然として立ち竦む。
恐る恐る振り向いたそこには ―― 振り向く前から誰がそこに立っているのかなど、分かっていたのだが ―― 雨神パルジャの鎧姿があった。
「パルジャ・・・駄目だ、まだ ―― いけない・・・!」
凍った声で、ディアウスは囁いた。
そしてそのまま崩れ落ちようとするディアウスの細い身体を、パルジャが抱きとめる。
「まだ・・・まだ・・・傷が塞がっていないのに・・・お願いだから、パルジャ!行ってはいけない・・・!!」
「今新しい情報が入った。風神ヴァータが負傷し、行方不明になったと」
低い声でパルジャは言った。
「何ですって・・・ヴァータが・・・?」
震える声でプリティヴィーが聞き返す。
「ああ・・・君はヴァータとは特別仲が良かったのだったね ―― 大丈夫、風は変わりなく戦場を吹き過ぎているらしい。きっとヴァータは何処かに・・・無事でいる」
プリティヴィーに頷いて見せてから、パルジャは再びディアウスに視線を戻した。
「今この時に出陣しないならば、私は戦神でいる意味がなくなってしまう。分かってくれ、ディアウス」
「ああ、分かっている・・・皆がそう言って行くのだから ―― 言っている事は分かる、でも・・・!!」
震える声で小さく叫んだディアウスの、冷たく青ざめた頬を透明な涙が一筋流れ落ちる。
「大丈夫、私は死なない。必ず戻ってくる」
濡れたディアウスの頬を指先でなぞりながら、パルジャは言う。
「その時は又君に・・・こんな風に青ざめて悲し気でない君に会いたい。その為にも休まなければいけない、ディアウス」
低い、落ち着いたトーンの声を聞いたディアウスは瞬きをして溢れて来る涙を退け、真っ直ぐにパルジャを見上げた。
その蒼い瞳を見つめ返しながら、パルジャはこの美しい人を守る為ならば何を犠牲にしても構わないと激しく思う。
しかしそれがアーディティア神群最大にして最強の一族を率いる王として、あまりに手前勝手な想いであるとも思うのだった。
「出来うる限り早く帰ってくるように努力するよ」
内心の激しい想いを誤魔化して、パルジャは言う。
「私が戦場で戦っている間に戦神でないライバル達に先を越されて君を奪われてしまっては、泣くに泣けないからね」
おどけた風を装うパルジャの言葉にディアウスは少し笑ってみせ、気を付けて、と呟いた。
そうしてパルジャが雨神一族を率いて出陣してゆくのを、人々は悲痛な思いを抱きながら見送った。
後に残された誰もが、再びこの一族の帰還をここに迎える事が出来るのだろうかと考えた。
それは最近、戦神が出陣してゆく度に繰り返し皆の心を襲う恐れであった。
だがその恐れは ―― 有り得ないような形で、覆される事になる。