4 : 嵐の到来
数日後、雨神の象徴である蒼い鱗の翼竜がアーディティア神殿の中庭に降り立つのを、人々は驚きながら出迎えた。
ほんの数日で10以上も年を取ったような顔をしたパルジャが、アーディティア神殿へ続く長い階段を大股で上ってゆく。
そして彼が無垢の女神アディティーを筆頭にして、出迎えた神々に告げたのは、到底あり得ない、信じたくないような情報だった。
「ビアース河の砦が破られた・・・?」
アディティーは呆然と繰り返した。
「はい」
固い表情をしたパルジャが頷く。
「砦を破壊し尽したアスラ神群は、そのままサラスヴァティー河を渡河する方向に進軍しております」
「そんな・・・そんな事になったら・・・滑稽だわ」
色を失った声で、ブラフマーナは言った。
「サラスヴァティーの流れが悪魔どもに汚されるなんて・・・おお・・・なんということ・・・!」
「でも何故・・・?」
叫び声も上げぬまま、押し黙って立ち尽くしていたディアウスがパルジャを見上げて尋ねる。
「ビアース河はマルト神群の領土の直ぐそばを通らないと渡れないというのに ―― まさか、マルト神群とアスラ神群は・・・」
「いや、今のところマルトが・・・ルドラ一族がアスラ神群側と手を組んだという情報はない。ないが、しかし今後は ―― 分からない」
「ルドラ一族のような野蛮な集団が今更何をどうしようと、そうそう驚かないわよ」
噛み付くように、プリティヴィーが言った。
「私はこの情報を一刻も早くアディティー様にお伝えする為に戻ったのです。私の翼竜を使うのが一番速いので・・・」
「そうよね・・・パルジャ、悪いけれど少し休んでから前線に戻ってもらえるかしら。そして一度皆をサラスヴァティー河の砦まで退かせてちょうだい。そこで体勢を立て直して・・・」
「疲れてはいません、私は殆ど戦ってはいないのです。今からすぐにでも・・・」
パルジャが言い終えるのももどかしく身を翻しかけた瞬間、高い音を立てて部屋の扉が開かれた。
驚いた神々が振り返ったそこには、真っ青な顔をしたアラーニーが立っていた。
普段は沈着冷静が服を着て歩いている、とまで言われる彼女が何の窺いも立てずに部屋に踏み込んでくるその異常さに、神々は言葉を失う。
それだけで何かとんでもない事態が持ち上がったのだと言う事が、容易に察せられた。
「・・・何があったの、アラーニー?」
と、アディティーが尋ねる。
「あの、あの ―― 今、マルト神群の使者が、下に・・・」
と、アラーニーは血走った目をして答えた。
恐ろしいまでの緊張と不安が、部屋を支配する。
驚きの声を上げる者もいなかった ―― 驚くべき報告が度重なりすぎて、皆の感覚は麻痺しきっていた。
無言で佇む神々の中から、アディティーが一歩抜け出て、
「分かりました、参りましょう」
と言い、しっかりとした足取りで部屋を出て行く。
凛とした女神の声と態度を見聞きし、我に返った神々は次々と、その後を追った。
神殿の入り口近くにある大広間の中央に、マルト神群の使者とその従者らしい集団はいた。
無垢の女神アディティーが広間に足を踏み入れると、一番手前にいた使者がぐるりとそちらに向き直る。
そしてゆっくりとした動作で、深く被っていた黒いフードを後ろに払う。
従者達も一人を除き、全員がそれに習った。
黄金色の瞳が並び立つアーディティア神群の神々を睨め付け、それと同色の、生きて呼吸しているかのような光を放つ金髪が、漆黒のマントと浅黒い肌の上に流れ落ちる。
「・・・英雄神インドラ・・・!」
一番手前にいる人物の顔を見て、パルジャが驚きを完全に消しきれていない声で叫んだ。
他の神々は、ただただ息を呑んで彼らを見詰める。
戦神(いくさがみ)でない者たちの殆どが、マルト神群の神を見るのはこの時が初めてであった。
知識として、『マルト神群を率いるルドラ一族は黒い装束を身に纏い、その肌は浅黒く、皆一様に気味悪いほどの輝きを放つ金色の目と髪を持っている』というのを知ってはいた。
しかし実際に圧倒的なまでに黒々としたマントですっぽりと身を覆った一団を目の当たりにすると ―― しかも目の前にいるのは使者とその従者合わせて10人程だけだと言うのに ―― どこか禍々しい空気が彼らの全身から発せられているように感じられ、アーディティアの神々は背筋が凍るような感覚を覚える。
暫くの間、黙ってその一団を見詰めていたアディティーが小さく前に進み出て、
「初めてお目にかかります。私が無垢の女神アディティーです」
と、言った。
「 ―― アスラ神群相手に、大分苦戦なさっておられるようですな。我らがルドラ王はその様子を知り、大変お心を痛めておられる」
口元に不遜な微笑みを湛えながら、インドラは言った。
それにあわせるように、後ろに控える従者からは低い笑い声が漏れる。
その笑い声を聞いてアーディティア神群の神々が小さく抗議の声を上げ、いきり立とうとするのを目線だけで抑え、アディティーはインドラに視線を戻した。
「確かに今現在、我々の状況は良いとは言いがたいですが・・・それを心配してこのような遠くまでいらして下さったのですか?
しかも名高い英雄神様だけでなく、ルドラ王までご一緒下さるとは ―― 驚きですわ」
そう言って軽い笑い声を上げたアーディティア神群を率いる女神を見て、インドラはすうっと両目を細めた。
薄い玻璃で作られたような緊張が、その場に流れる。
それを打ち砕いたのはインドラの後ろの従者の中で、唯一フードを被ったままでいた男だった。
「だから言っただろう、インドラ。小細工などしても無意味だと。・・・もういい、下がれ」
感情など1mmも感じられない、平坦な声で命令されて、インドラは素早い動作で斜め横に退く。
その場を動かないまま、彼は手を上げてフードを肩の後ろに落とした。
重い衣擦れの音と共に、他の者とは明らかに違う黒髪と深緑色の瞳が空気に晒される ―― それこそがマルト神群を率い、“暴風雨神”という別名を持つルドラ一族の王である証であった。
「ルドラ王・・・」
ひび割れた声で、誰かが囁いた。