月に哭く

6 : 究極の選択

 インドラの言葉を聞いたアーディティア神群の神々は最早怒りを通り越し、呆れて物も言えない心境だった。

 よりによって天神を人質(英雄神は“保証”などという言葉を使っていたが、それが人質と同義であることは明白だった)として差し出せとは ―― しかもあのマルト神群に ―― 到底承服しかねる提案であった。

 インドラが口をつぐんだ後、ルドラ王は薬師(くすし)として名高い天神に教えを請いたい事は沢山あるのだと、淡々と言った。

 確かにその昔ルドラ一族が『預知者狩り』を行ってから、当たり前の事ではあったが預知の能力と熟練した薬師としての能力を併せ持つ天地両神一族の血を受ける殆どの者は、マルト神群の領地に近付こうとはしなかった。
 それと同時にマルト神群の医薬に関する知識は、アーディティア神群の戦に対する知識と同様に発展する事はなかったのだ。

 しかしだからと言ってそう簡単にそうですか、と納得出来る筈もなかった。

 一様に苦虫を噛み潰したような顔をして黙りこくるアーディティア神群の神々にルドラ王は、
「どうしても信用出来ないと言うならば、我々が本気でアーディティアを救う積もりであるという証拠を見せよう」
 と、言った。
「どのようにして?」
 と、アディティーが尋ねる。
 ルドラは何ということはないという風に、今日中にビアース河の砦を奪い返してやる、と答えた。

 そんな事は夢の中でも有り得ないと、戦神(いくさがみ)であるパルジャは勿論、戦神でない神々でさえ思った。
 今やアスラ神群はビアース河どころかそれより更にずっと北西を流れるサラスヴァティー河沿岸にまで軍を進めているのだ。
 敵を一掃しながら普通に歩くように軍を進めない限り、不可能な話であった。

「裏でアスラと結託していて、我々を騙し撃ちにする気か?」
 と、パルジャが言うと、インドラと従者達は呆れた様に笑い出す。
「今更そんなまどろっこしい事をすると思うか?」
 と、インドラは笑いながら口を挟んだ。
「本当にアスラと結託してお前達を潰す気なら、とっくに成功しているだろうよ。まだ自分達はそんな策を持ってしないと倒せないような状態にあると思っているのか?戦神としての判断力まで失したか、情けない・・・」
「インドラ、言葉が過ぎる」
 と、ルドラ王が静かに言う。

 王の言葉に英雄神は不服げに口を歪めながらも黙った。

「・・・回答を聞きたい、無垢の女神よ」、ルドラは改めてアディティーに向き直って言う、「我々も暇が有り余っている訳ではない。援軍が必要ないと言うのであれば、我々は即刻退散するが」

 ルドラ王に静かに問われ、アディティーは返答に窮する。

 言い方は乱暴だが、英雄神の言う事は全て真実でもあった。
 確かに今、援軍は喉から手が出る程欲しいのだ。
 今いる神殿からそう遠くないサラスヴァティー河までアスラ軍が侵攻して来ているのであれば、滅亡の瞬間はすぐそこに迫っている。

 しかし・・・ ――――

 アディティー以下、神々は差し出された究極の選択を前にして途方に暮れる。
 やがて沈黙に沈んだその部屋に、か細い、しかしどこか芯の通った声が響いた。

 アーディティア神群の神々だけでなくマルト神群の神々までもがその人物を凝視する。

 鋭いもの、困惑したもの、驚愕したもの、あざ笑うようなもの・・・そんな様々な視線の全てを正面から受け止めて、彼は ―― ディアウスは繰り返す。

「承知いたしました」

 横に立つプリティヴィーがいち早く口を開こうとするのを手を上げて止め、ディアウスは真っ直ぐにルドラ王を見つめて続ける。
「今日中にビアース河の砦を奪回して頂けるのならば、私は全て信じて言う通りに致しましょう・・・ルドラ王」

「ディアウス、そんな・・・」
 と、ようやく言語能力を回復したパルジャが言ったが、ディアウスに厳しい視線を向けられて言葉を途切らせた。
「期限は今日中と言う事でよろしいのですか?」
「・・・陽が沈むまででも構わない。砦近くにいるうちの軍に今すぐに伝令を飛ばす」
 ルドラ王は後ろに控えていた従者達に何事かを囁き、再びディアウスに向き直り、
「アーディティア軍を率いている暁の女神にこの状況を説明する者を何名か同行させてほしいのだが」
 と、言った。
 ディアウスは頷き、後ろに控えていた双子の守護神を見る。
 主の視線の意味を察して、アパームとナパートは激しく首を横に振った。
「そ、そんな・・・今お側を離れる訳には参りません・・・!」
「我々は天王様と共に・・・」
「いいから、行きなさい・・・この私の命令に背くつもりか?」
 双子が声を揃えて抗議の声を上げるのを遮ってディアウスが言う。
「とにかく、マルト神群の方々の指示に従うように。いいな?」
 敬愛する神の厳しい声に、守護神は渋々ながら頭を下げる。

 何度も何度も振り返りながら彼らが立ち去るのを見届けてから、ディアウスはルドラ王を見た。
 ルドラはディアウスのその視線を真っ向から受け止め、そしてそのまま怯むことなく見返す。

 たっぷり数分間、そのまま何かを見定めようとするかのようにルドラ王を見ていたディアウスは、やがてきっぱりと、
「・・・それでは、私は今直ぐにこの身を預けましょう」
 と、言った。

 ディアウスのこの言葉にはアディティーも動揺を隠せない。
「ちょっと待ってちょうだい、ディア!」
 幼い頃、共に生まれ持っている能力を高める修行に励んでいた頃の呼び方で呼ばれてディアウスは思わず微笑む。
 最近ではお互いの立場を 慮 (おもんばか)ってお互いをあだ名で呼ぶ事はなくなっていたのだ。
「今は一刻を争う時だと思う、アディー。すぐにきちんとアスラを叩かなくては・・・今はルドラ王のお言葉を、信じるのです」

 アディティーに深く頷いて見せてから、ディアウスは蒼白な顔で瞬きもせず自分を凝視しているプリティヴィーに視線を転じる。

「後を頼む、プリティヴィー」
「・・・嫌よ・・・兄様、私・・・!」
「大丈夫」
 噛んで含めるようにゆっくりとディアウスは言う。
「私には“分かっている”。だから・・・大丈夫。何も心配することはない」
「本当に?・・・本当に、“見えている”の・・・?」
「・・・ああ」

 きょうだいのその会話を聞いて、インドラの顔が忌々しげに歪む。
 それに気付いたパルジャは背筋が冷えるような心持がし、ディアウスの腕を掴んでいた手に力を込めた。

 反応して上げられた蒼の視線は凛としていたが、そこに抑えられない不安の震えが感じられるような気がしてパルジャは気が狂いそうになる。

 このままではいけないと戦に出るたびに思ってきたのに、有効な対応策を打つ事が出来なかった自分が心底情けなかった。

 しかし現時点において、滅亡の危機を回避する為の選択肢は他にないことも分かっているのだ。
 これから自分が為すべき事は、少しでも早くアーディティア神群をマルト神群と対等な立場へと導く事であるのだと、強引に自分を納得させる。

「長い事辛い思いはさせない ―― 誓うよ、ディアウス」

 強い決意が漲ったパルジャの声を聞き、ディアウスはこくりとひとつ、縦に頷いた。