月に哭く

7 : 嘘と真実

 アーディティア神群の神々が息を呑んで見守る中、ディアウスはしっかりとした足取りでルドラ王のもとへと歩いてゆく。

 それを迎えるルドラが、近付いてくるディアウスにゆっくりと右手を差し出した。
 黒いマントが重い音をたてて翻り ―― まるで血で染め上げたような深紅の裏地が、空気に晒される。
 ぎくりとして立ち止まったディアウスを、伸ばされたルドラの手が捉えて引き寄せた。
 その光景はさながら、巨大な肉食動物の口が獲物を捕らえたようにも見えた。

 悲鳴に近い声が、アーディティア神群の女神達から上がる。

「・・・ルドラ王!!」

 そのまま立ち去りかけたルドラとその従者達を、アディティーの声が引き止める。

「ディアウスに ―― 天神の身にもしもの事があれば、私はあなたを許さない。どんな事をしてでも・・・“無垢の女神”の神名(しんめい)を踏みにじってでも、あなた方に復讐してみせる!」

 鼻で笑ったインドラをじろりと睨んで、ルドラは深くディアウスを抱きこんだままアディティーに向き直る。

「この戦が終わり、そなた達が落ち着いた形で話し合いの卓に付くというのであれば、その時は傷一つない姿でお返しする」
「・・・その約束を、どうかお忘れになりませんように ―― ルドラ王」
 激した口調を改めて、静かにアディティーは言った。

 頷いたのか頷かないのか分からない程度の会釈を残し、ルドラは身を翻す。
 その後をインドラと従者が追い、間を開けてアーディティア神群の神々が続く。

 神殿を出て、そこから続く長い階段を降りたルドラとその従者達の元に、空から馬が駆け降りて来る。
 龍の鱗と尾を持ったその馬は、高い知能を持つと言われるマルト神群の神馬だった。

 中でも一際大きな神馬が翡翠色の鱗を煌めかせながらルドラに駆け寄り、その鼻面をルドラの肩に擦り寄せる。
 その首筋を軽く叩いてやってから、ルドラは腕に抱いていたディアウスを馬の背に乗せ、自分もその後ろにひらりと跨った。
 そのまま後も見ず、空間を駆け上がってゆく王の後を追おうとしたインドラが振り返る。
 そして不安な面持ちをして見送るアーディティア神群の神々を一瞥し、不気味に笑った。
 パルジャが口を開こうとした瞬間、インドラは図ったようにマントをなびかせて王の後を追った。
 耐えきれずに苦し気なうめき声を上げ、ぐらりと揺らめいたプリティヴィーの身体を、アラーニーが支える。

 太陽の光が鱗に反射して煌めき、風にたなびく黒いマントの影がどんどん小さくなってゆく。
 影が小さな小さな黒い点になり、やがて空に溶け込んで見えなくなっても、一同はその場を動けなかった。

「王!ルドラ王!!」

 物凄い速さで走ってゆく王の背中に向かって、インドラが叫ぶ。

「どちらにいらっしゃるおつもりです?龍宮殿は反対ですぞ!」

 英雄神の問いに答えるそぶりも見せないルドラを、ディアウスが不安気に見上げる。
 ちらりとディアウスの顔に視線を走らせたルドラは、
「サラスヴァティーとビアース河の上空を通って帰る」
 と、言った。
「そこへはご命令通り四天王を全員向かわせました。ご心配なさることはないかと・・・王!」
 ルドラはそれ以上何も言おうとはせず、更に馬足を早めた。

「・・・何故すぐに・・・期限を待たずに身を預ける気になった?」

 インドラのお待ちください、という声が後方に流れて聞こえなくなってから、ルドラが尋ねる。

「普通に考えれば今日中にビアース河の砦を奪還するのは不可能ですし・・・それを夕刻までで大丈夫だとおっしゃるからには、絶対の自信がおありになるのだと思いまして」

 ここまでの速度と荒々しいやり方で空を翔けた経験を持たなかったディアウスは、怯えながらもはっきりとした声で答えた。

 その返答を聞いたルドラが、呆れたという風に肩を竦める。
「甘いことだ・・・我々が嘘をつくかもしれないとは思わないのか」
「嘘なのですか?」
 間髪いれずに問われて、ルドラは苦笑を漏らした。
 しかしそれ以上は追求せず、代わりに眼下を指差す。

「・・・あれがサラスヴァティーの流れだ。そこの谷の果てにビアース河がある。今日は霧が出ていて見えないが」
 要所要所を指し示しながら、ルドラは言った。
「向こうに見える黄土色の旗を掲げている軍がアスラ神群。手前の紅い鎧を着た一団が暁の女神と太陽神の軍勢だな。その後ろが・・・あれは死者の王の軍か」
「・・・あの、かなり押されているように見えますが・・・」
「そう簡単に戦況は変わらないが・・・もうそろそろだぞ」

 何が・・・と、ディアウスが問いかけようとした瞬間。

 二股に分かれて走る深く細い谷間の片方へと逃げ込んでゆくアーディティア神群の軍勢を追い詰めてゆくアスラ神群目掛けて、右側の崖から石が降り注いだ。
 驚くアスラ軍に向かい、石と同じ軌跡を描いて青い鱗の龍と、赤い鱗の龍が滑るように崖下へ降りてゆく。
 その向かいの崖上からも同じ様に白い鱗の龍と黒い鱗の龍が混ざり合って崖を急降下し、慌てふためくアスラ神群に襲い掛かる。

 見る見るうちに優劣が入れ替わってゆくのが、ディアウスにも分かった。
 マルト神群の神々が操る龍が吐き出す炎や、鋭い爪による攻撃に怯んだアスラ軍はアーディティア神群が逃げ込んだのとは別の、もう一方の谷を通ってビアース河の方角へ押し戻されてゆく。
 瞬きする度に戦況が変わってゆく ―― 大げさではなく、それはそんなあっと言う間の変化であった。

「アスラ軍は兵力はあるが団結力がない。一端崩れ出すと、脆い」
「凄い・・・」
 思わず小さな声で呟いたディアウスに、厳しい声でルドラは言う。
「ああやって垂直に敵陣に切り込むのには龍を使うのが一番いいが、風神が支配下に置いている鳳凰や、雨神が支配下に置いている翼竜を使っても出来ない事はない。そなたたちは単純な戦法を ―― 正面からぶつかって敵を叩く戦法を取りすぎる」

 ディアウスが何も言い返せずに眼下を見下ろしていると、ようやく王の神馬に追いついたインドラと従者がその姿を現した。

「上手くいったようですね。まぁ、四天王の龍部隊が出ているのですから、当然の結果ではありますが」
 ちらりと谷間を覗き込んで満足気に微笑んでから、インドラは言う。
「ああ ―― しかしタパスはなんであんなに龍を暴走させているんだ?あれ程までに火で辺りを焼き払う必要はないだろうが。お前から良く注意しておくように」
「御意」
「ビアース河の砦を奪還した後、アーディティアの戦神(いくさがみ)に状況を改めてお前から説明しておけ。戦以外の事は四天王には任せられないからな、何をしでかすか、分かったものじゃない」
「かしこまりました。・・・王はどうなさいますか?」
「俺はこの箱入りの天神様を、龍宮殿にお連れしなきゃならん」
 王がそう言うの聞いたインドラは、氷を散りばめたような視線でディアウスを見る。

「・・・どうか、お気をつけられますよう」
 と、インドラが言った。
「誰に物を言っている」
 肩を竦めてルドラは言って馬首を返し、未だ阿鼻叫喚の真っ只中にある戦場の上空を後にした。