月に哭く

9 : 頼るべきもの

 まるで、深い井戸の底へ降りて行っているようだ ―― 。

 乱暴、というのに近い強さで腕を引かれて歩かされながら、ディアウスは思う。

 進めば進むほど濃さを増す闇に支配された廊下は、果てる事を知らないかのように奥へと続いてゆく。
 いっそ果てがなければいいとディアウスは願ったが、当然の如く果てはあった。
 突き当たった部屋の戸が開けられ、必死の抵抗も虚しく中に押し込まれる。

 そこで掴まれていた手を離されたディアウスは入り口とは逆の壁まで走って行き、壁に張り付くようにして立った。
 傍から見ればこんな行動はさぞ滑稽であろうと妙に冷め切った脳裏でもう一人の自分が囁いたが、そうしないではいられなかった。

 戸に鍵を降ろしてからルドラはそんなディアウスを見、
「俺に付いて来ても大丈夫だと“分かっている”と ―― “見えた”のだと、言っていなかったか」
 と、言った。

 びくりと身体を震わせ、ディアウスは強く唇を噛む。
 口の中に、じわりと血の味が広がった。

 長い沈黙の後、ディアウスの首が小さく横に振られる。

「・・・見えてなど、いません・・・」

 ディアウスを見るルドラの目がすうっと細められる。

「わ、私・・・私には・・・良いことは見えないのです ―― 見えるのは・・・悪いこと・・・、死の、預知だけ・・・」
 無表情に自分を見るルドラを、ディアウスはこみ上げてくる涙が零れてしまわないよう瞬きせずに睨んだ。
「ですから・・・戦や進軍についての預知を私に求めているのであれば、それは・・・無駄な事です」

 暫くの間まじまじとディアウスを見ていたルドラがふいに、笑った。
 笑いは徐々に大きくなり、その内堪えきれないと言うようにルドラは戸に寄りかかって本格的に笑い始める。

 余りにも突然の思いもしなかったルドラのその反応に、ディアウスは恐怖を忘れて呆然とする。

 一体何がそんなにおかしいのかさっぱり分からない。
 自分は何かおかしな事を言っただろうか?

 あの、と問いかけようとした時、笑いが漏れる口を押さえながらルドラは言った。
「この俺がそんなものを当てにして戦をすると思っているのか?その為にお前をここへ連れてきたと?」
「・・・え・・・でも・・・」
「と言うか、アーディティア神群はいつ降りるかも分からない預知を当てにして戦をしている訳か?負け続けるはずだな、それは」

 ディアウスの思考は、ルドラのその言葉を聞いて更なる混乱の渦に巻き込まれる。

 天地両神一族の持つ預知の力は、アーディティア神群内ではかなり重要視されている力であった。
 特にディアウスの力は、生まれた時に当時最高の預知の力を持っていた長老が、
「この子はいまだかつてない強い力を持つ預知者となるであろう」
 と、預言した事によって、一族からだけでなく神群内の神々からも大きな期待がかけられることとなった。

 実際幼い頃は様々な事が見えていたが成長するにつれ、見えるものはおぞましく、辛いものが多くなってきた。
 日々夢に紛れて降りる不吉な色彩を帯びた預知はディアウスを酷く脅えさせるものであったが、その正確さは他の預知者とは比べ物にならなかった。
 本人はやがて自分の預知の力を忌み嫌うようにさえなってゆくのだったが、人々はディアウス自身も自身の力を誇りに思っているであろうと信じて疑わず、その苦悩を察する者はいなかった。

 人々はディアウスを地上のどんな宝石にも劣らぬアーディティアの宝であると崇め、天神が他の神群ではなくアーディティア神群に転生したのを喜んだ。

 しかし周りが自分の力を崇めれば崇めるだけ、ディアウスは精神的に酷く追い詰められ、孤独感を募らせてゆく。

 そういった本人の憂慮は常に優しく黙殺され、本人の感情とは関係なくアーディティア神群では何か行動を起こそうとする度にディアウスの意見が求められた。

 だが悪い事しか見えないという力は平和な時はそれなりに役に立ったが、戦の多い時代においては余り意味がなかった。
「どこどこに行くと誰々が死ぬだろう」などという預知が降りても、戦場がそこで繰り広げられている限り「じゃあ行くのをやめる」という訳にはいかないのだ。
 死ぬと預言されては士気が低下するのは当然の事で、やがてディアウスは戦に関する死の預知を他人に告げることをやめ、自分一人の胸に収めておくようになる。
 それは預知者の掟からすると禁忌に当たることであったのだが、この逼迫した状況下ではそうするしかなかった。

 そうとは知らぬ神々は、戦から神殿に戻るたび、ディアウスに何か“見えて”いないかと尋ね、ディアウスはそれに対し、ただただ無言で首を横に振った。

 ひたすらに自分の見たものがただの夢であって、預知夢ではないことを祈りながら。
 その内自分にも、事態を打開する良い預知が降りることを、当て所なく祈りながら。

 けれどディアウスの祈りが、叶えられる事は無かった。
 預知はその種類を変える事も無かったし、いつでも正確であり続けた。
 生きて再び戻らないと分かっている戦神(いくさがみ)が戦場に出てゆくのを見る度、ディアウスは自分が殺人に手を貸しているような気さえしていたのだ。

 そういった事実を知らないまでも、強い預知の力を持つディアウスの噂を、各神群の王が知らないはずはない。
 ルドラが言った薬師(くすし)の知識が欲しいなどというのは飽くまでも建前であると思っていたし、多分アーディティア神群の神々もそう考えた筈だ。
 目的が預知の力でないとすれば、ほぼ滅亡しかけていたアーディティア神群を救う目的は何だというのか。
 まさかに先ほど感じた懼れの核であったところの、身体だけを目的としている訳でもあるまい、・・・ ――――

 考え込むディアウスに、ルドラがゆっくりと近付いてゆく。
 驚きのあまり忘れていた恐怖に再び全身を支配され、ディアウスは限界までぴたりと壁に張り付いた。

 構わずディアウスの前に立ったルドラが、その右耳のすぐ横の壁に左手をつく。

「近寄るな・・・!敵の王に穢される位ならば、舌を噛んで死にます・・・!」
 自分を見下ろすルドラを必死で睨み上げながら、ディアウスは叫んだ。
「・・・敵・・・?我々は同盟を結びかけているのではなかったか?」
「周りの状況がどう変化しようと、天地両神一族にとってあなた方は、永久に敵です・・・!」

 その言葉を聞いたルドラは、視線を逸らしたディアウスの顎を強く掴んで自分の方へと向ける。
 小刻みに震えるディアウスを、至近距離でルドラの冷たい目が見下ろした。

「本当にそう思うのであれば」、とルドラは言う、「俺をたらしこんで、寝首を掻く事を考えろ。ここでお前が舌を噛んで死んでどうなるというんだ、下らない」

 ディアウスは頑なに逸らしていた視線を、ルドラに向ける。

「運命は自分で切り拓くものだ。誰かに押し付けられたからどうしなきゃいけないとか、ましてやどこの誰が降ろしているのかも分からない、下らん預知なんかに計れるものじゃない、絶対に」
「・・・な ―― ど、どうして、・・・そんな・・・」
「そんなものに頼っているから、あんな軟弱な戦い方しか出来ないんだ、お前たちは」

 吐き捨てるように言い、ルドラは掴んでいたディアウスの顎を離した。
 へなへなとディアウスが壁に沿って床に座り込む。
 そんな彼に背中を向けて、ルドラは再び扉に向かった。

「奥の部屋以外の部屋を、好きなように使っていい。後で一人、身の回りの世話をする侍女をよこしてやるから、必要なものがあれば彼女に伝えろ。突飛な物でなければ用意出来るだろう」
 言いながら扉を開け、ルドラは立ち止まる。
「扉には外から鍵をかけて行くが、絶対にこの部屋から出ようとするな。いいな?」

 肩越しに鋭く睨みつけられながらそう言われ、ディアウスは頷く事しか出来ない。
 それを確認したルドラは部屋を出て行き、重い音を立てて扉が閉まった。
 続いて乾いた金属音と共に錠が下ろされたのが分かった。

 ―― ここでは自分以外の人間を、簡単に信用するな ――

 扉が閉まる瞬間、ルドラが言った言葉が妙にディアウスの耳に残った。

 それは一つの神群を治める王である人物が口にする事とは思えなかった。
 何かがおかしいと、投げかけられた言葉の意味をひとつひとつ考えようとしてみる。

 しかし余りに色々な事がありすぎて、きちんと筋道立てて物事を考えられる精神状態ではなかった。
 ディアウスは一旦思考を止め、座ったままぐるりと部屋を見回してみる。

 冷たい石造りの部屋。
 薄茶色の獣の皮が敷き詰められた床に、鉄格子が嵌った窓が数個。
 壁に彫られた細かい彫刻、使い込まれた暖炉に木の椅子、それと対になった机。
 中でも一番目を引くのは、天井から吊るされた幾枚もの緋色の布だった。
 それらは一枚一枚、金糸で豪奢に刺繍が施されていて、色々な角度で壁や天井に留められている。

 一番遠くにある窓に目をやったディアウスはそこに、この冷たい、禍々しさすら漂う部屋には異質と思えるものがあるのに気付き、そっと立ち上がった。

 天井から下がる緋色の布を掻き分けるようにして近付いてみると、窓辺の鉄格子沿いに小さな鉢植えの植物が並んでいる。

 何故こんな所に植物が、と思いながらつやつやとした葉の縁を指先でなぞった時、堪えていた涙がディアウスの頬を伝い ―― 流れて、落ちた。

――――  「月に哭く」第1章 完
第2章に続く...