月に哭く

10 : 囁かれた謝意

 あくる朝、ディアウスが自分の寝室を出ると、居間の暖炉の前にルドラが座って剣を磨いていた。

「何をしていらっしゃるのですか・・・」

 数十秒の間、ただただ唖然としてその見間違いかと思うような光景を見ていたディアウスが言う。
 かけられた声に反応して、ルドラは顔を上げた。

「・・・見て分からないか?剣の手入れだが」
「そうではなく・・・!まだ安静にしていないと・・・」
「無茶を言うな、戦の真っ最中に“ルドラ王”が安静にしていられる訳がないだろう」
 苦笑混じりに言われて、ディアウスは唇を噛む。

 無茶なのはあなただ、と思う。
 あんな傷を負っていれば立ち上がるのも、そうやって座っているのでさえもやっとでしょうに、と。

 しかし ――――

 それはアーディティア神群故の感覚なのであって、マルト神群のそれではないのだろう。
 例え誰が何を言ってもルドラは傷を隠して配下の神々の前に立つのだ ―― 自分の弱味などおくびにも出さずに。
 それは全て、神々の士気を気遣っての事なのかもしれない、とディアウスは思う。

「・・・一昨日皆さんがおっしゃっていた、戦死者の鎮魂の席というのに出られるのですね」
「 ―― ああ。
 アスラ宮にいるヴリトラの動き次第ではそのまま又戦場に出なければならないかもしれないが」

 思わず首を左右に振って溜め息をついてから、ディアウスは自室に引き返した。
 暫くしてから戻って来たディアウスはルドラの側に腰を降ろし、神酒(ソーマ)と薬を作る。

「傷口を見せて下さい」
 磨き終えた剣が鞘に収められるのを見てから、ディアウスは言った。
「もう大丈夫だ」
「・・・大丈夫か大丈夫でないかは、傷を見てから私が判断します。・・・見せて下さい」
 強い口調でディアウスは言い、ルドラは渋々マントの留め金を外した。
 空気に晒された傷口を仔細に点検するディアウスの表情が、徐々に険しいものになってゆく。

「・・・例えどんなに無理だと言われても・・・」
「行くのですよね、分かっています」
 ルドラの言葉を遮ってディアウスは言った。
 そして気を取り直す様に大きくひとつ深呼吸してから、神酒(ソーマ)に浸した布で傷口を拭いてゆく。

「・・・アーディティア神群はこうだから駄目なのだと思われているのでしょうね。でも、薬師(くすし)としてはやはり、この傷を見て立ち歩いて良いですとはとても言えません」
「それはそうだろう。
 薬師(くすし)には薬師の、戦神(いくさがみ)には戦神の強い信念があって、それがかみ合わない事があるのは当然だ」

 綺麗事や分かった振りをして言っているのではない、達観したようなその声音を聞いて、ディアウスは視線を上げてルドラを見る。
 ルドラは真っ直ぐに前を向いたまま、やはり傷口に触れられて生じているであろう痛みを表情に出すことはなかった。

「右肩は極力動かさないように・・・特に横に動かすような動作はしないで下さい。利き腕ですから、難しいとは思いますが」
「・・・分かった」
「それと・・・戦に出られる場合、出陣前に一度ここに戻る事は出来ますか?」
「長い時間でなければ可能だと思うが」
「では戻られた時に又傷口を消毒して薬を塗り直しましょう」
「ああ。・・・しかしいいか、俺が戻るまでは部屋で待っていろ。帰ったら声をかける。今度こそ言う事を聞け。分かったか?もし戻れなかったら、シュナを来させる」
「はい」
 素直に頷いたディアウスは神酒(ソーマ)の入った水盤と薬草を手に立ち上がり、部屋に入った。
 が、数分後に扉の隙間からひょっこりと顔を出す。

「・・・お前な・・・」
 呆れと、微かな苛立ちを混ぜ会わせた声でルドラは言う。

 だがディアウスはそれを無視して足早にルドラに近寄り、その手に何かを押し付けた。
 ルドラが手を広げて見ると、掌には小さな布袋が乗っている。
 麻紐で口が縛ってある光沢を纏った絹の袋からは、ほのかな芳香が漂ってくる様だった。

「・・・これは?」
 と、ルドラは尋ねた。
「痛みを緩和する・・・いわゆる麻薬の成分を含んだ薬草が入っています。麻薬と言っても、筋肉などに影響はありません。匂いをかぐと少しは楽になると・・・殆ど気休めに近いですが」
 ディアウスの答えを聞いたルドラは、黙って紐を首にかける。
 ルドラが首に下げた香袋を胸元に忍ばすのを見てから、ディアウスは立ち上がり、
「では、今度こそ部屋でおとなしくしていますから」
 と、言った。

 部屋に戻ってゆくディアウスの後ろ姿を見送っていたルドラが、逡巡の後に小さくその名を呼ぶ。
 それは本当に小さな声で ―― 声を発した本人でさえ、それが彼の耳に届くとは思わなかった。

 だがしかし ――――

 扉に手をかけたところで、ディアウスはかけられた声に反応して振り返る。

「・・・はい?」
「・・・いや、別に・・・」
「・・・え?」
 聞き取れなかったディアウスが眉根を少し寄せて聞き返す。

 ルドラは一瞬の半分ほど、言葉を続けようかどうしようか迷ってから、
「・・・ありがとう」
 と、小さな声で言った。

 ぶっきらぼうなその声音を聞いたディアウスは、ルドラから視線を逸らし、辺りに視線を彷徨わせる。
 やがて小さく横に首が振られ、ディアウスは無言で自室へと姿を消した。