9 : 哀しくも懐かしい記憶
鼻腔をくすぐる清々しい芳香が、暗い深淵に沈んでいた意識を覚醒させる。
この香りは一体なんの匂いだっただろうか?
酷く・・・酷く懐かしく、そして悲しい記憶を思い起こさせる香りであった。
美しく滑らかな白い肌と、亜麻色の長い髪が、脳裏に鮮やかに蘇る。
柔らかく、常に芳しい匂いを纏う手で頭を撫でられ、同じ位柔らかな声音で名前を呼ばれる。
でも ―― でも俺は“ルドラ”なんて知らない。
そんな名前ではない、俺は、そんな名では・・・。
いや、違う ―― 違う。
決して現実から逃げてはいけないと、彼女は言った。
決して逃げずに真実を ―― 真実だけをより分けて見れるようになりなさい。
誰よりも強く、揺ぎ無い精神を・・・力だけでなく、精神の強さを、あなたは自分で育てなければ・・・。
そうでなければ決して支えられない ―― 助けられない・・・ ――――
しかし未だ俺には分からない、あなたの言った言葉の意味が。
あなたが俺に遺した言葉は曖昧模糊とし過ぎていて、難しすぎて・・・
俺に何かを求めていたのか、求めていたとすればそれは一体何なのか・・・さっぱり分からない。
一体俺は何をすれば・・・何を支えて、誰を助ければいいというんだ?
教えてくれ。
俺はどう足掻いても、自分で自分の事すら支えきれていない気がするというのに・・・。
ふいに、さらりとした感触が頬を撫でた。
その感触はやはり、遠い昔のあの人を思い起こさせる。
自分はまだ夢の中にいるのだろうか、とルドラは思う。
頭上に光が揺れ、更に意識が覚醒の水面へ向かって浮き上がる。
目を閉じたまま、怪我を負った方の腕を少し動かしてみた。
襲ってきた引き攣れる様な痛みと共に、突然、唇を柔らかいものが覆う。
同時に、口中にほろ苦い液体が流し込まれた。
無理やり意識を水面に押し上げ、目を開ける。
部屋に差し込む光に視界を焼かれてはっきりとは見えないが、明らかに目の前に ―― すぐ側に誰かがいた。
動かし辛い右手を無理やり動かしてそいつの胸倉を掴み、寝台に押し付ける。
同時に枕下に手を差し込み、忍ばせてある短剣を引き抜いてその喉元に突きつけた。
小さな悲鳴と、鋭く吸い込まれた呼吸の、怯えきった雰囲気。
徐々に光に慣れて行く視界に映ったのは、天神ディアウスの怯えた顔だった。
押し倒し、押し倒された2人は暫くの間、無言で見つめあっていた。
「・・・動いてはいけません、ルドラ王」
みるみるうちにルドラの額に浮かび始めた珠の様な冷や汗を見て、ディアウスは言った。
ルドラはディアウスの喉元に短剣を突きつけたまま、油断なく辺りに視線を泳がせる。
「大丈夫です、誰もいません。呼んでいませんから。とにかく早く横になってください」
「・・・ここで何をしている?部屋から出るなと、言った筈だ」
崩れ落ちるように寝台へ身体を預けながら、ルドラは言う。
掴まれていた手首を摩りながら、ディアウスは寝台から降りた。
「それはそうですが、余りに酷い怪我だったので、治療を」
「治療は必要ない。早く出て行け」
短剣を手にしたまま、ルドラはディアウスの言葉を遮る様に言った。
「そんな訳にはいきません。大体あんな粗い治療をしていては、まともに治るものも治らない・・・」
「出て行けと言っている、殺されたいのか ―― っ、・・・!!」
荒々しく言いながら再び起こしたルドラの上半身が、ぐらりと傾ぐ。
寝台から滑り落ちそうになったルドラを慌ててディアウスが支え、支えた身体を再びゆっくりと寝台に横たわらせた。
「・・・今争ったら或いは、私が勝てるかもしれませんね」
と、ディアウスが苦笑交じりに言った。
ルドラはもうそれ以上、抵抗しようとはしなかった。
「それはいらない」
寝台の脇の机に置いた薬草をより分けるディアウスの手を横目で見ていたルドラが、ふいに口を開く。
「・・・え?」
ルドラの発した言葉の意味を図りかねて、ディアウスは眉をひそめる。
「・・・眠り薬はいらない。傷薬だけでいい」
「・・・でも、今から傷口を神酒(ソーマ)で洗って薬を塗るので・・・眠っていた方が楽ですよ。かなり痛みを伴うと思いますし」
「構わない」
きっぱりとルドラは重ねて言い、ディアウスは肩をすくめた。
かなり辛いとは思うが、本人が大丈夫だと言っているのだ。
ルドラ一族の王の、痛みに歪む顔を拝ませて貰おう、という意地の悪い気持ちもあった。
「 ―― では、そのように。辛かったら言って下さい」
一応断ってからディアウスは傷口を神酒(ソーマ)で洗い始めた。
徹底的に、少々あざといかと思う位丁寧に傷を洗ってゆく。
そうしながらさりげなくルドラの表情を観察していたディアウスだったが、彼は呻き声どころか表情ひとつ変えない。
傷口を洗い、そこに薬を塗り込んでいる最中も、それは変わらなかった。
全ての治療を終える頃、ディアウスはその超人的とも言える我慢強さに感心の気持ちさえ覚えていた。
慣れた手付きで傷口に包帯を巻き、調合した飲み薬を飲ませてからルドラの身体を寝台に横たわらせる。
少しでも眠ってもらおうと、格子戸を降ろし、部屋の窓を閉めてゆくディアウスに、ルドラがぽつりと尋ねる。
「俺が憎いだろうに・・・何故、こんな真似をする?」
投げかけられた問いにディアウスはすぐには答えず、最後の窓を閉めてから振り返った。
思いがけず真剣な視線を投げてくるルドラに、なんと返事をしたものか少し悩んでから、ディアウスはゆっくりと首を左右に振った。
「分かりません、自分でも。最初は放っておこうと思ったんです。でも・・・ ―― 」
その返答を聞いて、ルドラは微かに笑う。
「“でも”、治療してしまった訳か。全く預知者というのは、何を考えているのか・・・」
「・・・預知者に、知り合いがいるのですか?」
薬草の種類を見分ける事が出来るようなそぶりを見せた時から感じていた疑問を、ディアウスは口にしてみる。
ルドラは天井を見上げて暫く黙っていたが、やがて肯定の返事を返した。
「昔・・・遥かに遠い、過去の話だ。お前は生まれてすらいなかったろう」
「 ―― その方は・・・その預知者の方は今、どちらに?」
「・・・死んだ。俺が、殺した」
低い声で、ルドラは言った。
ディアウスはじっとルドラの顔を見つめて話の続きを待ったが、彼はもうディアウスと視線を合わそうとはせず、それ以上の説明をする気もないようだった。
小さく溜息をついてから、ディアウスは薬草と水盤を手に部屋を後にした。
扉の開く音と閉まる音がして、部屋は暗闇に沈んだ。