11 : 夢と現実の狭間
それから十数日が経過したが、アスラ神群が大きな動きを見せる事はなかった。
ヴリトラはアスラ宮の奥に篭ったまま不気味な沈黙を続け、戦況は膠着状態となった。
前線で多少の衝突はあったがそれは小競り合い程度のものであり、名高い神々が出陣するようなものではなかった。
アーディティア神群の神々も幾人かは前線に出ているが、今の所大きな怪我をしている神はいないとルドラはディアウスに告げた。
自分がアーディティア神殿を出て来た時、怪我をして治療中だった神々が全員戦場に出て来ているとも聞いて、ディアウスは胸を撫で下ろす。
今後戦況がどうなるか見当もつかないし、ヴリトラの不気味な沈黙も非常に気にかかる。
だが今の所アーディティアの神々は無事であり ―― そしてルドラが負った傷を癒す間があるのは良かったとディアウスは思う。
ルドラ一族が自分たちの一族に対してした事を、許せる訳ではない。
ルドラ王を全面的に信頼しているとも、今は言い切れない。
けれどだからと言って昔のように、闇雲にルドラ王を ―― 今現在のルドラ王一個人を憎いとは、もうディアウスは思えなくなっていた。
彼の肩の傷を治療して、そのやり取りの中で彼に対する気持ちが変化してゆくのをどうしても止められなかったのだ。
それにシュナ ―― 彼女と、この状況下においては密接とも言える係わり合いを持てたように思える今となっては、以前のようにマルト神群に属する人間全てが悪であるなどとはとても考えられない。
これを一族の者たちに言ったら猛反発されるのは想像に難くなかったが、自分の気持ちは今後決して変わる事はないだろう・・・。
そう考えながら組んだ両腕に顎を乗せて窓の外を見た時、鍵が外される音がした。
緋色の布の隙間から居間を覗くと、昨日から前線の視察に出かけていたルドラが暖炉の前でマントの留め金を外している所だった。
「・・・傷の具合はどうですか?」
返ってくる答えは分かりきっているのであったが、つい聞いてしまうディアウスだった。
「変わりない」
と、やはりルドラがいつもと同じ返事を返す。
「・・・見せて下さい」
ルドラに近付きながらディアウスは言い、彼は抵抗する事もなく傷を見せる。
その流れも、今ではもう当たり前の流れとなっていた。
ルドラの傷は未だ完璧に塞がってはいなかったが、驚異的とも言える回復を遂げていた。
身体を貫通する程の深い傷がほんの数十日でここまで回復するとは、と数日置きに傷を見るたびに驚きを禁じ得ないディアウスだった。
「本当に回復が早いですね・・・勿論、まだ無理は禁物ですが」
傷口を神酒(ソーマ)で拭き、薬を塗りながら感心したようにディアウスは呟いた。
ルドラはちょっと肩を竦め、
「まぁ、怪我には慣れているからな、俺は」
と、答えた。
「そんな・・・怪我をし慣れているから回復が早まる事はないでしょう、絶対。これは多分ルドラ一族の特性なのだと思います。アーディティア神群の一族には見られないですし。
こういうの、研究してみると面白いかも知れないですね」
慣れた手つきで包帯を巻きながら発せられたディアウスの言葉に、思わずルドラは吹き出す。
「・・・え、何ですか?」
「いや ―― そうだな、いつの日かそういう研究が出来るようになればいい」
しみじみとしたルドラの口調に、ディアウスは自分の言った言葉を思い返して思わず赤面し、頬を手で押さえた。
「ええと、あの・・・っ、こっ、子供の夢みたいな話ですけど、こんなの・・・」
「 ―― 夢を本当にただの夢で終わらせてしまうか、現実に出来るか・・・それは関わる者の心意気次第かもしれないがね」
そう言ってルドラは服を着て立ち上がった。
「治療ありがとう。俺は用があるので又出かけなければならないが、行きがけにシュナにここへ来る様に言っておこう」
「・・・あ、はい、どうも・・・」
着替えをすませたルドラが部屋を出て行ってからも、ディアウスは何となく茫としてその場に座り込んでいた。
一時ルドラ王が前線に出たまま帰らなかった時は命の危険さえ感じたものだったが、ルドラ王が帰って来たのと同時にこの部屋の周りには誰も近づかなくなった。
そしてルドラともそれ程緊張せずに話せるようにさえなった今、正直に言ってここで暮らすのはアーディティア神殿で暮らすよりも楽な気さえする。
こんな風に思うのは一時的な事で、再びルドラが長期間に亘って戦場に出る事になれば、同じ様に身の危険を感じるようになるであろう事は分かっていた。
しかしここでは誰も自分の預知の力に期待せず ―― 期待どころか憎しみさえ抱いている訳だが ―― 誰もディアウスの預知の力を当てにしたり、伺ったりしない。
あのおぞましい預知夢(よちむ)もここへ来てからは全く見ないように(多分預知をするべきアーディティア神群の神々の“気”に接していないからだとディアウスは推察していた)なっていた。
その事実が何よりも心を安らかにしているのであったが、それだけでなく、アーディティア神群の神々と共に生活する事が自分の想像以上に息が詰まるものであったのだと、改めて感じる。
そしてこんな風に感じてしまうのは余りに手前勝手な事であると ―― アーディティア神群の神々がどれだけ自分の事を心配しているか想像がつくだけに ―― 自己嫌悪にも陥るのだ。
「・・・ディアウス様、どうかなさいましたか?」
部屋にやってきたシュナに声をかけられて、ディアウスははっと我に返った。
そして広げたままの薬草や神酒(ソーマ)を慌てて片付け始める。
「いえ、何でも ―― そうだシュナ、お母様の薬を作っておいたから、帰りに持って帰って」
「ありがとうございます。丁度今朝なくなったところだったんです」
シュナはそう答えて笑い、手にしていた薬草が入った籠をディアウスの側に置いた。
そして、
「私、ルドラ様のお部屋をお掃除して来ますね」
と、言ってルドラの自室へと姿を消した。
その後姿を見送りながら、本当によく気の利く、聡明な人だ、と改めてディアウスは思う。
多分何か感づいていると思う ―― ルドラ王が怪我をして帰ってきてからこっち、シュナに追加を頼む薬草は当然の事ながら傷を癒す薬草が多くなっていた。
ルドラから怪我の事は誰にも言わないようにと念を押されているのでシュナにも何も言ってはいないけれど、気付いていない筈はないと思う。
が、シュナはその事に関しては何も言わないし、聞こうともしない。仄めかすことさえなかった。
だからこそ、ルドラもシュナだけはこの部屋に出入りさせているのだろうと思う。
ここでは、自分以外の人間を簡単に信用するな。
ルドラのあの言葉を、忘れた訳ではない。
だが側にいて、シュナ以上に信頼できる人はマルト神群にはいないだろうとも思う。
そういう人物を選出して側に置いてくれたルドラに対しては、心の底からありがたいと感じるディアウスなのであった。
けれど勿論、ディアウスの持つ力は衰えた訳ではなかった。
降り止まない雨がないように、
底のない井戸がないように、
明けない夜がないように ――――
揺ぎ無いその力は、主が永遠に瞳を閉ざす日まで、強さを失う事はないのだ。
環境の変化によって凍えるように一時眠りに付いていたその力は、再び能力を奮うべく身じろぎを始めていたのだった。