12 : 神の呪縛
どろりとした生ぬるい空気が、辺りに充満している。
いつものだ、と、ディアウスは思う。
いつもの、“あれ”が来る。
突き上げて来る様な激しい恐れと、焦りを感じる。
しかし実際自分が何を恐れ、何から逃げたいのかがどうしても分からないのだ。
そんな困惑の時間がどれほど過ぎただろうか ―― やがてディアウスの眼前の霧の一部分が、唐突に薄らいでゆくのが分かった。
出口だろうかと、ディアウスはそこに近付いてみて ―― 初めて自分が何を恐れていたのかを知る。
そこには、死の影に彩られた人影がぼんやりと浮かんでいた。
ディアウスが覗き込んだのと同時に、その顔がはっきりとした輪郭を現してくる。
目を反らすのだ。
早く。
ディアウスは自分自身に命令したが、顔を反らすどころか、指先ひとつ自分では動かせない。
泣き出したかったが、まばたきさえ出来なかった。
やがてはっきりと見えてきた年老いた女性の顔は ―― シュナに、とても良く似ていた。
いつの間にか、ディアウスは寝台の上に起き上がっていた。
我に返り、震える手でやはり震えている自分の身体を強く抱きながら、暗い室内を恐々と見回す。
大丈夫、ここは現実だ。
夢ではない ―― 帰ってきたのだ。
でも、今のは一体どういうことなのだろう、とディアウスは考える。
自分が見るのは同じ一族の ―― アーディティア神群の神々に関する預知だけなのだと今まで信じてきたけれど・・・それは違うというのだろうか?
「そんな・・・今のは夢・・・ただの、夢・・・大丈夫・・・大丈夫・・・」
自分に言い聞かせるように、ディアウスは何度も、祈るように呟く。
だが今見たものが預知夢であるということは、ディアウスが誰よりも一番よく分っていた。
今までに幾度となく、見たものがただの夢であるようにと祈ってきた。
けれどいつだって、その祈りが叶えられた事などなかったのだ。
それでも、信じたくなかった。
今回だけは今見たものがただの夢である事を祈った ―― いつもと同じように。
しかしそれから数日間、連続でその預知夢を見てしまった後では、そんな逃避は意味のないものになる。
これは紛れもなく“神”が降ろした預知夢なのだ。
それならば、家族に ―― シュナに預知を伝えなければならない ―― 預知を知るべき人に知らせないのは、預知者の世界では大罪に値することでもあるのだ。
ディアウスは毎日、シュナが部屋にやってくる度に自分の見た預知を告げようとしたが、どうしても言えなかった。
日に日に精気を失ってゆくディアウスを心配したシュナが、何かあったのですかと問う事もあった。
その度になんでもないのだと嘘をつき、そんな自分を更にディアウスは責める。
こうして自分が迷っている間に取り返しのつかないことにでもなったら、一体どう償うというのかと思う。 けれど、この環境で唯一の心の拠り所であるシュナを失うのが怖かった。
そんなある夜、10回目の預知夢を見て寝台に起き上がったディアウスは、やりきれない深い悲しみと共にそっと立ち上がる。
窓のない自室の暗闇に取り囲まれているのが耐えられなくなり、雲を踏むような心地で部屋から居間に出て、窓辺に崩れ落ちるように座った。
格子が嵌まった窓から外を見上げると、漆黒の空には星はなく、ぽつんと満月だけが浮かんでいた。
気味の悪いほど大きな、冷たい色の満月だった。
その白い光に無言のまま責め立てられているような気がして、ディアウスは強く目を閉じる。
そうだ、シュナに話さなければならない。
明日の朝、シュナが来たら必ずこの預知を伝えよう。
これ以上現実と義務から逃避し続ける訳にはいかない。
ディアウスは今までにない強い決意と共にそう心を決める。
預知を告げる事で人に嫌われても、それは仕方ない事なのだ。言っておきたい事や心構えをする為にも、下ろされた預知をその近しい人に告げるのは自分の義務なのだ。
しかしそう決意しても、この預知を聞いたシュナが示すであろう反応を想像すると、キリキリと胸が痛んだ。
内心どう思っているのか知る術はないけれど、シュナは今まで決してディアウスを気味悪いと感じているような素振りを見せた事はない。
預知者に関して、色々と悪い噂を聞いているであろうシュナが自分にこんな風に親身に接してくれるのが信じられないような気がするのだ。
けれどこんな事を伝えれば、きっとこの能力を不気味に思うに決まっている。
天地両神一族を内包するアーディティア神群の神々の中にも、この力を快く思っていない一族がいるのをディアウスは知っていた。
ましてや天地両神一族を憎み、嫌っている一族が統治する場所で成長した人間なら尚更だろう、きっと・・・。
「どうして・・・?」
ディアウスの震える唇から、小さく疑問の声が漏れる。
「どうして・・・どうして私だけ、こんな能力を、・・・ ―― 」
蒼い瞳から零れ落ちた涙が、ぱたぱたと窓枠を叩く。
濡れた窓枠に腕を投げ出し、ディアウスは投げ出した腕に突っ伏すようにして身体を震わせた。
そんなディアウスの背後で、闇が揺らめく。
小さな物音を聞きつけて扉を開けたルドラは、ディアウスの小さな問いかけの声と、零れ落ちる涙が溶け合う様を見て僅かに眉根を寄せた。
長いことルドラは扉に寄りかかってその様子を見ていたが、やがて扉は開かれた時と同様に、音もなく閉められる。
背後のその動きに気付かないまま、ディアウスは声も上げず、静かに涙を流し続けるのだった。