月に哭く

14 : 忘れられない光景

「大分お痩せになられましたね、ディアウス様」
 長い事かけて泣き止んだディアウスに、シュナが言った。
「殆どお食事、なさっていらっしゃらなかったのでしょう?顔色もよくないように思いますし」
「もともと顔色はそんなにいい方じゃないから、私は・・・」
 と、ディアウスは言いかけるのを聞いたシュナは、厳しい顔をして首を横に振る。
「今日部屋に入ってきて驚きましたよ、私。だから辛く当たられたりしたのではないかと思って、お聞きしたんです。ルドラ様も殆ど城に帰ってきていないと聞きましたし・・・」
「・・・まぁ、それは・・・その方が良かったりするのだけれど・・・」
 苦笑交じりに、ディアウスは呟く。

 確かに彼に対して以前のような圧倒的な恐怖を覚えることはなくなっていたが、完全に信頼出来ている訳では勿論ない。
 手前勝手な考え方だとは思うが、マルト神群の他の神々を牽制してもらえる程度に時々姿を現す、今くらいの頻度でこの部屋に帰ってきてくれるのが一番いいとディアウスは思っていたのだ。

 そんなディアウスの気持ちを知ってか知らずか、シュナは口元に微かな笑みを漂わせながら尋ねる。
「ディアウス様は、まだルドラ王の事が怖いのですか?」
「えっ ―― ええと、それは・・・」
「最近よくお2人でお話をなさっていたので、もう大分慣れて来られたのかと思っていたのですけれど」
 と、言ってシュナは小さく首を傾げた。
「確かに以前よりは、慣れて来たけれど ―― でもやはりあの人は、私達にとって・・・」
 ゆっくりと、言葉を選びながら話すディアウスだったが、その声は徐々に小さくなってゆく。
「・・・預知者の一族にとっては、やはりどうあってもルドラ王は敵だ、という事ですか?」

 重ねて尋ねられ、ディアウスは返答に窮した。
 組んだ手を何度も組み直しながら、言葉を探す。

 肯定するのも否定するのも躊躇われるこの微妙な気持ちを ―― ルドラ王に対する気持ちの揺らぎを、どんな言葉で表現すれば分かってもらえるのだろう?
 考えれば考えるほど、言おうとする言葉は上滑りになってゆく気がして、結局ディアウスは何一つ言葉を発する事が出来ない。

「・・・これは ―― 言うべきか言わないべきか分からないのですけれど」
 軽く眉根を寄せて逡巡するディアウスに、シュナが躊躇いがちな声で言う。
「父に預知者を逃がすようにという命令を下していたのは、ルドラ王なんですよ」

 その爆弾発言とも言える言葉に、ディアウスは愕然として顔を上げ、シュナを見た。
 一瞬言葉の意味が全く理解できず、自分が聞き違えたのではないかとさえ思ったディアウスは震える唇で聞き返す。

「い・・・今、なんて・・・?」
「ですから、捕らえられそうになった預知者を逃がすよう父に頼んでいたのは、あのルドラ様なんです」

 小さいながらもきっぱりとしたシュナの声を聞いて、ディアウスは呆然としたまま、先ほどのものとは別の意味合いで言葉を見失う。

「ルドラ様は預知者の方と親交があったそうで・・・ほら、最初に薬草を取りに上の森に入った時の事を覚えていらっしゃいますか?その時、薬草の茂っている所に私が御案内したでしょう?」
「ああ、覚えてる」
 驚きが収まらないディアウスは、緩慢な動作で頷く。
「あの大きな木の根元に様々な種類の薬草が生えているだろうと教えてくださったのは、ルドラ王なんです、実は。
 その預知者の方はよくそこで薬草を摘んでいたそうで、父は・・・ ―― 」
「ちょっと・・・ちょっと待って」
 右手を空中に差し上げて、ディアウスはシュナの言葉を遮った。
「ルドラ王が・・・預知者を逃がしていた・・・?」
「ええ、その時は私も小さかったので、成功した例があったのかなかったのか、そこまでは分かりませんが」
「でも・・・でも、ルドラ王は私に、自分は預知者を殺した事があるってはっきりと言っていたけれど。だからこそ、私は・・・」
「・・・確かに現ルドラ王が預知者を惨殺したという逸話は、マルト神群内では良く聞く話ですが・・・それが本当の話かどうか、私は知りません。でも、父に預知者を逃がすように命令していたのはルドラ王で、それは紛れもない事実です」
 と、言いながらシュナは胸元に手を差し入れて小さな袋を引っ張り出した。
 袋からそっと取り出された親指の先ほどの大きさの蒼い石を見て、ディアウスは思わず声を上げて両手で口を覆う。

 その石は天地に住む一切神デヴァーハの妻、光の女神ヴィシュヌの涙の結晶であると言われ、天地両神一族の聖地、シュラダ山でしか産出されない“月虹石(げっこうせき)”という名の石であった。

 その昔、預知者は各自一つずつその石を手にし、それによって神から与えられた力を高めたという言い伝えが残っていたが、元々非常に数が少ない石であった為、現存している石は全て天地両神一族の居城である天王宮の地下の奥底に安置されている。
 今やそれが人々の目に晒される機会は殆どなく、天地両神一族の神々がその石を見る事すら極めて稀な事であり ―― ディアウスですら、アーディティア神殿に正式に上がる直前に執り行われた儀式の際に見たのが最初で最後だった。

 その聖なる石を、よりによってマルト神群を治める王の自室で見る事になるとは・・・

 ディアウスは差し出された石の表面を、伸ばした人差し指と中指の先で恐る恐る撫でた。

「これは、ディアウス様がお持ちになっていた方がいいかもしれないですね」
 そんな逸話や、石の貴重さを全く知らないシュナが、あっさりと言う。
「・・・この石は・・・どこでどうやって手に入れたものなんだろう?」
 シュナの掌に乗せられた石から目を離さずに、ディアウスは尋ねた。
「ルドラ様から渡されたんです」
「ルドラ王から・・・!?」
 再び驚きの色を隠しきれない声で、ディアウスが叫ぶ。
 シュナは、はい、と頷き、続ける。
「父が処刑された後、少ししてから、ルドラ王が私に渡して下さったんです。父が助けようとしていた預知者の方が、力を尽くしてくれた私の父に託したのだと・・・事が露見する、数時間前だったと聞きました」
 ディアウスの真剣な表情に驚きながら、シュナは言った。
「そう・・・もしかしたら未来を預知していたのかも・・・ ―― 」
 大きな溜息と共にディアウスは頷き、シュナを真っ直ぐに見て微笑んだ。
「その石は今までどおり、シュナが持っているといい。大切な形見なのだから。
 それと私の一族を助ける為に命を投げ出して下さったと言うお父様の事、私は一生忘れない。本当にありがたいと思う。でも・・・そのせいでシュナに辛い思いをさせたのかと思うと・・・」
「勿論、辛いこともありましたけど・・・ルドラ様が本当に色々と心を砕いて下さいましたから」
 取り出した蒼い石を再び袋に仕舞いながら、シュナはさらりと言った。

 シュナの言葉を聞いたディアウスは、暫くの間唇を引き結んで考え込んでいたが、やがてゆっくりと口を開く。

「シュナも、お母様も・・・何故ルドラ王を憎いとは思わないんだろう?だってそんな命令をされなければお父様は死なずに済んだだろうし・・・シュナ達だってもっと気持ちよく生活できたのに」
「確かにそれはそうでしょうけれど・・・恨むとか、憎むとか、そういう事はないです」

 ディアウスの食事の用意をしながら、シュナは答える。
 その声には嘘偽りを言っている色は全く滲んではおらず、ディアウスはそれを不思議に思わずにはいられない。

 王の下した命令に従ったせいで父親は殺され、その罪で ―― それが本当の意味で罪と言えるかどうかは別として ―― 自分たちまで辛い目にあわされているのだ。
 しかも命令した本人であるルドラ王はここにこうして、王として君臨し続けている。
 表立って糾弾する事は出来ないにせよ、多少は恨めしく思ってもおかしくはないのではないかと、ディアウスは思う。

「・・・どうして・・・って、理由を聞いてもいいかな。
 何故ルドラ王を・・・そんな命令を下して父親を死に追いやったルドラ王を、シュナは恨まずにいられるんだろう」

 食事を用意する手を止めて顔を上げ、シュナはディアウスの真剣なまなざしを見返した。
 そして、口を開く。

「覚えているからです」

 そう言って、シュナは遠い目をして虚空に視線を泳がせた。

「・・・その件が露呈して父が処刑される事になった日・・・家にやって来たルドラ一族の神が私達家族に差し出した刑の執行命令書・・・ルドラ王が書いたその命令書が、血書だった事を・・・。あの紅い紅い血の色を、私は今でもはっきりと思い浮かべることが出来る」

 と、言ってシュナは寂しそうに俯いた。

「それを私達に見せながら、父は・・・父は私達に誓わせたんです。決してルドラ王をお恨みするなと・・・今後どんな辛い思いをしても、決して王を憎んだりするなと。王の一部は自分と一緒に処刑台に上がり、共に処刑されたのだと言う事を一生涯忘れるな、と・・・ ―― 」

 囁くように続くシュナの言葉。
 その言葉が零れ落ちる唇と伏せられた睫毛の震えを、ディアウスは身じろぎもせずに見ていた。