月に哭く

15 : 真実の姿

 微かな物音が、ひそやかに眠りの湖の水面を揺らす。
 意識の奥底の緑深い森の奥にひっそりと存在する、誰も知らない小さな湖。
 その水面に偶然 ―― 何かの拍子に ―― 小さな石が転がり落ち、波紋が生まれる。
 それは本当に微かな、波とも言えない、震えのようなものだった。

 しかし元々眠りが浅いディアウスは、その小さな揺らぎによって夢の世界から現実の暗闇へと引き戻される。
 右頬を枕に押し付けたまま、自室の外の物音を注意深く追いかける。

 錠が外れる金属音、閉められた扉が軋む音、それに続く足音、重い衣擦れの音、手足を洗うような水音、火の爆ぜる音、グラスが触れ合う音・・・ ――

 暫くの間その音の流れに耳を澄ましていたディアウスはやがて静かに立ち上がり、薄手のマントを手に部屋の戸を細く開ける。
 左手で右肩を押さえたルドラが、心なしか疲れたような表情を浮かべて暖炉の前に座っているのを見て、ディアウスはそっと部屋を出る。

「まだ、傷が痛みますか・・・?」

 ふいに声をかけられ、反射的に剣に手を伸ばしながらルドラが顔を上げた。
 だが戸口に佇むディアウスを見て剣にかけた手を引き、首を左右に振る。

「いや、もう大丈夫だ」

 その返答を聞いたディアウスは微かに微笑み、足音を立てずにルドラに近付いてその傍らに腰を下ろした。

「飲むか」
 と、言いながらルドラは側に置いてあった大きな酒瓶を引き寄せる。
 ルドラの前に置かれたグラスに満たされた深紅の液体を見てからディアウスは頷き、
「お酒はあまり強くないので、少しだけ・・・」
 と、言った。
「アーディティア神群の神々は余り酒を飲まないのか」
 と、尋ねながらルドラは机の上に置かれていた新しいグラスにその液体を流し込む。
「戦神(いくさがみ)の中には、かなり飲まれる方もいらっしゃいますよ。私は・・・神儀の時に少し飲む位でしたけれど」
 と、ディアウスは答え、受け取ったグラスを暖炉で揺らめく焔にかざした。
「こんな色のお酒は初めて見ます。綺麗・・・」
「葡萄酒だよ、これも薬と同様、他国から輸入してきたものだ。この国はそういう必要不可欠なものから嗜好品まで、殆どの物が自国では作れず・・・戦に明け暮れてばかりだ」

 自嘲気味なその声に、ディアウスはグラスから目を離して隣に座るルドラを見る。
 ルドラの彫りの深い横顔は、燃え盛る焔の灯りが作り出す影によってゆらゆらと揺れているように見えた。
 焔が生み出す不安定な明かりの中で見ると、その揺らぎはまるで、ルドラ自身の心の揺らぎであるかのようにも見えた。

 ふいに薪が暖炉の中で音を立てて転がり、焔が一段と激しく踊り上がった。
 燃え盛った焔が収まるのを見届けてから、ディアウスは口を開く。

「昔、捕らえられそうになっていた預知者を逃がそうとなさっていたそうですね」

 この話をどういう風に切り出そうかと、この何日か ―― シュナからあの話を聞いた後、ルドラがこの部屋に帰ってくるまでの数日間 ―― 思い悩んでいたディアウスだった。
 だが結局、回りくどく言うよりも最初から端的に核心を突いたほうがいいような気がしたのだ。
 そしてその予測が正しかったのだと、ディアウスは確信する。

 ルドラはディアウスが発した問いを聞き、その内容を理解した瞬間、ぎくりとして全ての動きを止めたのだ。  その動揺を逃す事無く、ディアウスは質問を続ける。

「 ―― ルドラ一族が未だに心底預知者を忌み嫌っているのは、ここにいて良く分かりました。その一族の王が何故預知者を助けたりしようと思ったのですか?いいえ、あなたは今現在もこうしてここに私を住まわせる事で、私を守って下さっている。それはどうしてですか?」

 一気に言い切ってディアウスは口をつぐみ、身動き1つしないルドラの反応を待った。

 長いこと沈黙が続いたが、ふいにルドラは喉を逸らして笑い出す。

「俺がお前を守っているだと?憎んでも憎み足らないマルト神群の王から、随分と株を上げたものだな、俺も?」
「ルドラ王、真面目に答えて下さい」
 嘲りのようにも取れるルドラの言葉に怯む事無く、ディアウスは言った。

 真摯な視線で自分を見上げるディアウスを、ルドラは無表情に見下ろす。

「私には真実を聞く権利があると思われませんか?」、とディアウスは言った。
「真実?」、とルドラは聞き返す、「真実とは一体何だ。真実は1つしかないと、お前は思うのか?」
「真実は・・・真実は常に1つだけでしょう・・・?違いますか?」
「違う」
 きっぱりと答えて、ルドラは手にしていたグラスを一気に傾けた。
 そして酒瓶を取り上げ、再びゆっくりとグラスを深紅の液体で満たす。

 床に敷かれた敷物の上に落ちた紅い影が波打ちながら伸びてゆくのを、ディアウスはじっと眺めていた。
 持ち上げたグラスをゆらゆらと揺らしながら、ルドラは続ける。

「それは見る角度によって、様々に形を変えるものだ。一己の人間が1つの方向から見ただけの真実とやらを鵜呑みにするのか、お前は?大体、俺が正直に話をしているとどうして分かる。俺が嘘をつくかもしれないとは思わないのか」
 ルドラのその言葉を聞いて、今度はディアウスがくすりと笑う。
 そのまま笑い続けるディアウスを、訝しげにルドラは見た。

「それ、口癖ですね?」
 笑いの中からディアウスは言った。
「・・・何が」
「初めて会った時にもおっしゃっていました、『俺が嘘をつくかもしれないとは思わないのか』」
「・・・そう ―― だったか?」
「ええ、そうでした」
 と、頷いてからディアウスは面を改め、正面からルドラを見据えた。
「私は何よりも、あなたを・・・あなたの考えをもっと知りたいと思うのです。ですから、あなたが見て、判断した真実で構いません。話して下さいませんか・・・?」

 ひたと自分を見つめるディアウスから顔を逸らし、ルドラは答えを探すように虚空に視線を泳がせた。