月に哭く

16 : 月が見ていた

 静かな沈黙が長いこと続いた ―― 元々沈黙とは静かなものではあるが、それは普通の沈黙以上に静かな沈黙であった。
 そんな中ディアウスは特に答えを促そうとはせず、蒼い双眸に朱色の焔の揺らめきを映しながら、手にした葡萄酒を少しずつ舐めるように飲んでいた。

「俺がお前に告げられるのは、2つの事実だけだ」

 重い沈黙を破ったルドラが、掠れた声で言った。
 沈黙を破った声に反応し、ディアウスは伏せていた顔を上げてルドラを見る。

「1つ目は、確かに俺がこの城の上の森に隠れ住んでいた預知者を逃がそうとした事があるという事実。そして、2つ目は・・・」
 そこまで言った所でルドラは一旦言葉を切り、隣に座るディアウスに真っ直ぐ向き直った。
 そして一語一語言葉を切るようにしながら、はっきりとした口調で続ける。
「2つ目は、その預知者の一人を、俺が・・・この俺が、この手で、殺したという事実だ」

 最後、ふいに地を這うように重くなったその声を、ディアウスは眉筋1つ動かす事無く聞いていた。
 少しのずれもなく見詰め合ったまま、ディアウスは口を開く。

「・・・何故殺さなければならなかったのですか?」
「何故・・・殺さなければならなかったか・・・?」
 聞き返されたディアウスが小さくひとつ頷くのを見て、ルドラは続ける。
「何故なら、そうすべきだと思ったからだ。俺がこの手で彼女を殺すべきだと思った。だから殺した。ただ、それだけだ。他に意味などない」

 ディアウスと同様、表情を少しも歪める事無く答えるルドラの低く掠れた声は、どこまでも淡々として平坦なものだった。

 ほんの数日前までなら、乾ききった砂漠のように干からびたその人情味のない言葉や物言いは、幼い頃から伝え聞いていたルドラ王の残虐さや冷たさ、非道さから派生しているのだと思っただろう、とディアウスは考える。
 現ルドラ王が伝え聞いていたよりは残虐でも、非道でもないのかもしれないと思い始めてはいたものの、やはりそういう面も多々あるのだろうと納得し、信じ込んでいただろう。

 けれども、今やディアウスは以前とは全く違った印象を、ルドラの声音から感じ取る事が出来た。

 油を流した海面のようにのっぺりとして見える表面からは想像も出来ないような激しさと脆さが、その奥底に熱く滾るように存在しているのが感じられたのだ。
 それは苦しさややるせなさ、もどかしさ・・・そして見る角度によっては怒りに似ているようにも見えた。

 その事を理解したディアウスは訳もなく悲しく、また辛くなる。
 目の前にいるルドラが、めちゃくちゃな方向性を持つそれらの感情に1人きりで耐えてきた過程における苦しみが、手にとる様に分かったのだ。
 周りには決して理解して貰えない、はたまた理解されては困るといった色を持つ感情をただ1人で抱え込み、その重圧を両肩で支え続けなければならない辛さを、ディアウスは誰よりも良く知っていた。

「辛かったですか・・・」

 逸らされようとするルドラの顔を、伸ばした手で優しく引き止めながら、ディアウスは囁く。
 囁かれた問いかけに、ルドラの目が僅かに見開かれた。

「辛かったのでしょう・・・?」

 再度問いかけられて、ルドラの瞳が一瞬、固く固く閉ざされる。
 やがて開かれたルドラの目を、ディアウスが深く覗き込んだ。

 視線が間近で絡み合った瞬間、その瞬間、2人を包む空気ががらりとその色を変えた。
 お互いの背景にある複雑に絡み合った事情に思いを巡らす余裕もなく、引かれ合う様に、2人の距離が縮まってゆく。

 お酒の ―― 葡萄酒のせいかもしれない。

 唇が触れ合う瞬間、2人は同時にそう考えた。
 しかしそうではないと ―― 少なくとも酒だけのせいではないという事を、お互いに心の底では知っていた。

 激しさや狂おしさとはかけ離れた、秋の湖面のような静けさを伴ったその口付けを見ているのは、暖炉で揺らめく焔と、窓の端に引っかかるようにして室内を覗き込む青白い三日月だけであった。