月に哭く

17 : 激情と慟哭の狭間

「最近、ルドラ様と何かおありになりました?」

 薬草を選り分ける手を止めずに、シュナがふいに言った。
 その向かいでやはり薬草をひとつひとつ手にとって検分していたディアウスが顔を上げる。

 あの夜 ―― 唇を重ねていた時、ルドラの手がゆっくりと自分の肩に忍び寄って来ているのを、ディアウスは知っていた。
 何があっても、どういう事になってもいいと、あの時、確かに自分が思っていたのも。

 しかしルドラはいつまでたってもその手をディアウスの肩に回そうとはしなかった。
 やがて唇を離した瞬間に見たルドラの目は、何故か酷く混乱し、動揺しているように見えた。
 訝しく思いつつ見上げるディアウスの目を数秒間見返していたルドラ王だったが、そのまま無言で立ち上がり、まるで逃げるように部屋を出て行ってしまったのだ。

 それ以来、彼は確かに部屋に戻って来ていなかった。

「・・・どうして?」
 ルドラとの口付けの感触が唇の上にリアルに蘇ってきて心がざわめいたが、ディアウスは努めて静かに問い返す。
「前線に出ていらっしゃる訳でもないのに、お部屋や寝室を使われた形跡がないので・・・どうかなさったのかと思って」
「どこかに視察に出ていらっしゃるものだとばかり、思っていたのだけれど・・・そうじゃないということ?」
「はい、ルドラ様はここの所はずっと、城内にいらっしゃいます。お姿を時々お見かけしますし・・・他の戦神(いくさがみ)の方々も殆ど城内にいらっしゃっていて、多分今後の事を話し合われているんだと思います」
「そう・・・」
「ですから何か・・・一族の事などで言い争いでもなさったのかと思ったんです。すみません、考えすぎですね」

「・・・シュナはルドラ王の事が本当に好きなんだね」
 自嘲気味に笑うシュナに、ディアウスが言った。
「はい、そうですね」
 あっさりと、シュナは頷いた。しかし直ぐに慌てた様子で顔を上げる。
「ああでも、変な意味ではないですよ?お慕いはしていますけれど・・・」
 ディアウスは少し笑って頷く。
 シュナも笑って、続けた。
「ただ、ルドラ様ってお側でお見上げしていると・・・何て言うんでしょう、訳もなく苦しくなって ―― そして、心配になるんです。色々・・・、大変な思いを抱えてご無理をなさっているのが分かるので・・・」

 最後は独り言のようになってゆくシュナの言葉を聞いていて、ディアウスは改めてあの夜自分が感じた感覚が間違っていなかった事を知る。
 ルドラ王が纏っている冷酷で非道なヴェールのその下に隠された、激情と慟哭。
 自分が長年抱いてきた激しい感情の混乱を、別の人間の中に見る驚き。

 私達はもっと色々、腹を割って話をするべきなのだ。
 強い確信と共に、ディアウスは思う。

 手にしていた薬草を籠に戻してディアウスは顔を上げ、シュナの名を呼ぶ。
 そして、ゆっくりと口を開く。

「・・・なるべく早いうちに、ルドラ王に伝えてもらいたいのだけれど・・・」

「斥候に出していた者から報告が来ました」

 石造りの薄暗い部屋の入り口にかけられた重い布をはねあげ、部屋に入ってきたインドラが言った。
 差し出された書状はまずルドラの脇に控えるサヴィトリーが受け取り、次いでルドラに渡される。
 手にしたグラスに満たされた酒を飲み干し、空になったグラスと引き換えにしてルドラは書状を手にした。

「ヴリトラは未だ動かず、か・・・」
 開いた書状にざっと目を走らせて、ルドラは呟いた。

「 ―― 気味が悪いわ」
 部屋の中央、ルドラ王の直ぐ目の前に固まって座っている四天王の女戦神(いくさがみ)のひとり、アガスティアが言った。
「一度動き始めたヴリトラが、こんなに簡単に静かになるなんて・・・もう半年以上大きな動きをみせていない。嫌な感じだわ」

「曲がりなりにも今現在、私達マルトとアーディティアは手を組んでいる訳で・・・、それで、動きようがないのかもしれない」
 アガスティアの左隣に座るミトラ ―― 彼は四天王の中では一番の年輩者であり、その取り纏めをしている者であった ―― が落ち着いた声で言った。
「ミトラは甘い!」
 焦れたようにタパスが叫ぶ。
「ヴリトラが、そんなに甘い相手だと思ってるのか?確かにヴリトラの陣営は数を減らしてはいるが、まだまだその兵力は侮れない。それがここまで沈黙を守っているというのは、何か策があるからじゃないか?早く・・・少しでも早く先手を打つべきだ、絶対に!!」
「しかし、今となっては大分アーディティアの神々も使い物になるようになってきたからな」
 激しい身振りと共に叫ぶ年若いタパスに詰め寄られても、少しも気を悪くする素振りを見せないまま ―― それどころか口元に微笑みすら浮かべて、ミトラは答える。

 つい十数年前に四天王となったばかりのタパスは未だ性格が荒く、突飛な行動をとることも多かった。
 だがその真っ直ぐな物言いと激しいまでに純粋な気性はいかにもマルトの四天王、といった風に好意的に捉えられ、特に四天王内部では可愛がられているのだ。

「ハッ、使い物?冗談じゃない。今俺たちが守っているのはあいつらの領地じゃないか。自分たちの領地を自分たちで守るのは当然の事だろう!そんな当たり前の事も満足に出来ない戦神(いくさがみ)達に何を期待しろって言うんだ?」
「それは王のご命令だったのよ。口を慎みなさいな、タパス。気持ちは分かるけれど」
 苦笑の影を唇に漂わせながら、アガスティアが逸りすぎるタパスを諌める。
「だけどな・・・!!」
「それより気になるのは」
 タパスが言い足りない、という風に床を叩きながら叫ぶのを遮ったアガスティアが言う。
「アーディティアの戦いぶりが半年前位から、突然良くなった点よ。しかも戦術がやけに私達と似て来てる・・・これは皆、おかしいと思ってる事じゃないかしら?」

 アガスティアの指摘を聞いて、矢継ぎ早に言葉を発していた四天王が押し黙る。

「まぁ、一緒に戦っている訳だからな、一応」
 黙って四天王のやり取りを聞いていたインドラが低い声で言う。
「全く白紙の状態だったあいつらが、模倣するのは俺達の戦い方しかないだろう」

「ああもう、グダグダと面倒くせぇな、そうだよ、いっそこっちから先手を打とうぜ。策は随分前から考えてたんだ、俺は」
 部屋の片隅の壁にもたれて座っていた羅刹王アグニが、にやりと笑いながら言った。
 そして音をたてて黒いマントを肩に掛けながら立ち上がる。
「使えるか使えないかっていうニ択で考えれば、俺はアーディティア神群は大いに“使い物”になると思う。
 囮を使ってアーディティア神群の奴らを操って、先にアスラ宮にぶつける ―― それをエサにして、ヴリトラをおびき出すんだ」
「多少出来るようになったと言っても、アーディティア神群はまだまだ戦神(いくさがみ)としては使い物にならない。例え死ぬ気で総攻撃を仕掛けたとしても、強固な魔力によって守られたアスラ宮は微動だにしないだろうよ。そんな簡単にヴリトラが出て来るならば苦労はしない」
 肩を竦めてインドラが言う。
「いや、ヴリトラが出てこなくてもいいじゃないか、インドラ。ヴリトラの周りにいる手ごわい息子どもだけでもひっぱりだせればいい。ある程度アーディティアの神々とアスラの悪魔どもがやりあった所で、俺達が出る。手前にいる息子悪魔どもを叩き潰せば、親が出てくるしかない ―― そうだろう?」

 そう言って、アグニは王をはじめとする回りの神々をゆっくりと見回した。