月に哭く

25 : 迫りくる闇

 その後、2人の様子には全く変化が見られなかった ―― 少なくとも表面上は。

 昼間のルドラとディアウスの間に流れる雰囲気は以前と全く、少しも変わらない。

 ルドラは特別用事がない限り昼間は自室に寄り付かなかったし、ディアウスは相変わらず極力ルドラを避ける姿勢を崩さなかった。
 夜、ルドラが部屋にいる時に入れ代わり立ち代わりやって来てはルドラに会議の席に出る様に懇願しに来る戦神(いくさがみ)達は勿論 ―― 彼等が来るとディアウスは自室に閉じ籠っていたので ―― 毎日部屋にやって来るシュナでさえ、2人の関係の変化には気付かなかっただろう。

 そうして完璧に覆い隠された濃密な空気が曝け出されるのは、深夜だけだった。

 誰もが、何もかもが ―― 城を取り巻く木々や、その枝葉を行き過ぎる風さえも眠りに着いた深夜。
 夜の闇の奥底、剣で切り分けられそうな程濃密な闇の中、2人は昼間押さえ込んでいた感情を全て吐き出すかの様に激しく抱き合う。

 始めの内は緊張の余り、髪に触れられるだけで身体を硬くしていたディアウスであった。
 しかし共に過ごす闇の時間、時を経る毎に、少しずつ、その反応に甘いものが滲んでくる。
 脅えの色さえ漂わせて固く閉じていた蕾が、ゆっくりと自分の手によって綻んでゆく ―― それが手に取るように分かったルドラの愛撫は、夜を重ねるごとに色濃く、大胆なものになってゆく。

 愛の言葉を囁き合う事はない。
 未来を語り合う事もない。

 ただお互いに身体を重ねる毎に思うのは、たとえ刹那の間でも、そこから永遠を見れるのではないかという切なる希望。
 ひたすらに祈るのは、自分の肌から相手のそれに伝わる熱や震えを、少しでも長い間相手の記憶に刻み込んでおきたいという願い、それだけしかなかった・・・ ―――― 。

 闇の中で、『闇』が動く。

 闇の中でもその“もの”の“かたち”は、髪の毛の1本1本まできっちりと、寸分のずれもなく闇から切って取り出す事が出来そうだった。

「分かったであろう・・・」

 と、『闇』が言った。

 答えはない。

 しかし『闇』はそれを特に気にはしていないようだった。

 数瞬後、空気が微かに震えた。
 それは『闇』にとっての笑いかもしれなかった ―― その『闇』が笑う事があるのならば、の話だが。

「あの者ども ―― 特に今、この瞬間に王の元にいる存在は、生まれながらにして魔性の存在なのだ・・・全ての生きとし生けるものを、根底から狂わせる・・・分かったであろう・・・今こそ・・・ ―――― 」

 それを聞き、対する者が小さく、そして絶望的に唸った。
 今度こそはっきりと『闇』は笑う。辺りの湿度がじわりと増した。

「未だ躊躇うか・・・手遅れとなるぞ・・・もう、王は溺れ・・・狂いかかっているというのに・・・ ―― 」 「狂いかかっている・・・?」

 絞り出す様な震えを帯びた声が尋ねる。

「そう、・・・信じぬか・・・?あの呪いの力 ―― あの蒼の魔力を決して侮ってはならない・・・あの魔力は水と同じ・・・僅かな隙間をも見逃さず、全てのものに浸透しつくす強い力なのだ、と・・・、以前から何度も、そなたに言ったな・・・確か・・・?」

 『闇』はそう囁き、ゆっくりと手を上げた。
 そして両手で顔を覆い、小刻みに身体を震わせるその者の肩を掴む。
 長く伸ばされた爪が、微かに肉に食い込んだ。

 全身を瘧のように震わせるその者の背後に広がる闇を透かし見て、『闇』がにやりと笑う。
 顔を両手で覆っている者は、それに気付かない ―― 闇の向こうにいる別の者が、『闇』に向かって頭を下げたのも。

「残る時間は僅かだ ―― 分かるであろう、もう・・・そなたは何をすべきか分かっている・・・そうであろう・・・?」

 震える闇。
 赤く光る瞳と、血で彩ったような唇。
 肩から離れてゆく手、赤く、赤く、血塗られた長い爪。
 顔を覆う手指の間から見える、『闇』の姿・・・ ――――

「ああ・・・!」

 恐怖とも、絶望ともつかない声が、空気に溶ける。

「そなたは分かっている、分かっているのだ ―― もう、分かっている・・・」

 繰り返し囁かれるその言葉はやがて、徐々に闇の奥へ奥へと消えて行く。
 それを追い求めるように、手が伸ばされる。

 縋ろうとしたのか、捕らえようとしたのか。
 手を伸ばした本人にも、分からないままに。

 しかし上げた手を伸ばした先にはもう、『闇』の姿は、なかった・・・ ――――

 目覚める度に、つい寝台の上を手が彷徨ってしまう。
 そこに自分以外の温もりを探してしまう。

 手が温もりを探し当てる事などない事を知っているのに、何と女々しい事か。
 ルドラは口元に苦笑を閃かせながらゆっくりと身体を起こし、薄暗い部屋を見回した。

 彼は ―― ディアウスは幾度夜を重ねても、決してルドラと一緒に眠ろうとはしなかった。
 荒く弾んだ呼吸が収まり、部屋に沈黙が流れるとそっとルドラの様子を伺いつつ服を着て、部屋を出て行ってしまう。
 そしてこの自分は、そんなディアウスを引き寄せて、抱き締める事に躊躇いを覚えてしまう。
 いや、引き寄せて抱き締めるだけなら出来る。簡単なことだ。
 ディアウスが抵抗しないであろう事も、分かっていた。

 だが、抱き締めて ―― それからどうするのかと思うと、まるで寝台に手を縛り付けられているかのように考えを行動に移すことが出来ないのだ。

 ルドラは溜息をついて寝台から降り、服を着た。
 分厚いマントを羽織りながら居間に出て、そのまま部屋を出て行きかけ ―― ディアウスがいるであろう部屋の扉に目をやる。

 扉の向こうで、自分の気配を辿っている。多分、息を詰めるようにして。
 見なくてもルドラには、ディアウスの様子が手に取るように分かった。

 10歩の距離と、扉が一枚。

 分厚い雲の向こうに赤い陽が昇ってしまった今、ルドラとディアウスにとって、その距離はまるで地平線の遥か彼方と同様とも言える距離のように思えるのだった。