月に哭く

26 : 恐れの向かう先

 結局ルドラはそのまま部屋を出た。

 暗い廊下を、重い足取りで歩きながら考える。

 そうする他にどうしようがあっただろう?
 あの距離を越える事で、変わる事があるのだろうか、と。

 少しばかりの後悔と逡巡を繰り返しながら歩くルドラの前に、ふいに誰かが立ちはだかった。
 ルドラが驚いて顔を上げると、そこにはインドラが立っていた。

「・・・どう言われようと、もうあんな下らない会議には出ないぞ俺は」

 インドラが口を開く前にルドラは言い、そのまま歩き続けようとした。
 しかしインドラは素早く身体をずらし、ルドラの行く手を阻む。

「王、お話があります」
「聞きたくない、どけ、邪魔だ」
「会議には別に、出ていただかなくても構いません・・・!」
 と、インドラは小さく叫んだ。
「確かに我々は王の意に反する行動をとる事が多々ございますが、勝手に兵を出す事までは出来はしません。王が出兵しないというのであれば、我々は従うしかない。ですからそれは構わないのです ―― 少なくともこの私は」
「・・・何が言いたい」
 激しく眉根を寄せてルドラはインドラを見やり、インドラは食い入るような目をして目の前の王を見詰める。

 この男は苦手だ、とルドラは心の奥底で思う。

 若い頃に先々代のルドラ王に仕え、そして今現在は自分に仕える英雄神。

 神名(しんめい)を預かる神は総じて寿命が非常に長く、又、その年齢が外見に影響する事はない。
 自分が小さい頃から全く見た目の変わらないこの男が醸し出す奇妙な重圧感を、幼い頃から快く思えないルドラだった。

 信頼していない訳ではない。
 一番信頼している戦神(いくさがみ)であると言っても過言ではない。
 しかしこうやってただ見詰められると、どうにも身の置き所がない気がしてしまうのだ。

「・・・天神の事です」
 人がいない事を確認するように左右に視線を流してから、インドラは囁いた。
 ルドラは眉間に寄せた皴を更に深くする。
「だからその件も、どう言われても・・・」
「アスラをおびき出す囮にするとか、ヴリトラに生贄として捧げてしまうとか、そういう話ではございません」  きっぱりとした口調でインドラはルドラの呆れたような声を遮った。
「あの者を、アーディティアに返しましょう。王が命令して下されば、この私が神馬を駆ります」
 それを聞いたルドラは一瞬黙り込んだ後、引き攣ったような笑い声を上げる。
「そんな事を・・・」
 信じると思うか、とルドラは続けようとした ―― が、続けられなかった。
 インドラの言葉と視線に滲む真剣すぎる懇願の色は、とても適当に誤魔化したり出来るものではなかったのだ。

「・・・お前は一体、何を考えているのだ」
 と、ルドラはひび割れた声で尋ねる。
「・・・ご安心下さい、天神はこの私が責任を持って、かすり傷ひとつ負わせずアーディティアに送り届けます。剣と・・・この命にかけて」
 きっぱりとインドラは言った。
「何故だ、そんな事をすればお前自身の身とて危うくなる・・・それが分からない筈はあるまい」
「危険はもとより覚悟の上。アーディティアでも、そしてこんな事をすればこのマルト神群内でも私の身は危険に晒されることになる。それも全て承知の上で申し上げているのです・・・ルドラ王」
「何故・・・?」
「何故、と理由を訊かれるのですか?私が何を思ってこの様な事を言っているのか、お分かりになりませぬか・・・分かっていらっしゃるでしょう、我が君」
 低い声でインドラが言い、ルドラは一切の言葉を失う。

 暗い廊下に、重苦しい沈黙が流れた。

「天神をここへ連れて来るきっかけを作ったのは他の誰でもない、この私です。それについて言い逃れはしません」

 苦々しげに顔を歪ませ、視線を伏せて言葉を続けるインドラを、ルドラは瞬きもせずに見ていた。

「・・・しかし私は王の命令を無視して天神を人質にとるという提案をした過去の自分を、串刺しにしてやりたいとさえ思う。あの一族が持つ呪いに満ちた力 ―― 恐ろしい、おぞましいまでのあの力を、私は侮っていたのです。これ以上はもう、とても黙っていられない」

 そこで閉じていた目を開き、インドラは深くルドラの目を覗き込む。

「あなたはここ最近、様々なことを恐れ始めている。それが分かるから ―― 私は不安なのです」
「何を下らない事を・・・俺が何を恐れていると言うんだ?」
「それではお尋ねしますが、王は今も以前のように、何ものも恐れないと、本心から言い切れますか?捨て去って惜しいものは何もないと、言い切れますか・・・!」

 ルドラのマントの端を強く掴み、鼻先が触れ合うほど近くに顔を寄せてインドラは低く叫んだ。
 至近距離で自分を見詰めるインドラの視線を暫く受け止めていたルドラだったが、やがてその視線がつと逸らされる。
 インドラはそれを見て、きつく眉根を寄せた。

「元々王は人質をとることには反対なさっていたのですから、一も二もなく許可を下さいますね」
 畳み掛けるように、インドラは言う。

 視線を逸らしたまま、ルドラは振り上げた腕を横に振るようにして、インドラがマントを掴む手を払いのけた。

 そうして無言で自分の横を歩きぬけて行く王を、インドラはもう、止めようとはしなかった。