月に哭く

27 : 定められた選択

 その夜、ルドラが自室に戻ってみると、いつもは暖炉の前に座って自分を出迎えていたディアウスの姿はそこになかった。
 暖炉内の焔は少し前に燃え尽きたらしく、微かな温みが部屋のあちこちにたゆっている。

 ディアウスの気配を辿ったルドラは、その姿を部屋の片隅で見付る。
 天井から幾重にも下がった緋色の布で覆われた窓の下で、うずくまる様にして眠る彼を。

 暫くの間、眠るディアウスの顔を見下ろしていたルドラだったが、やがて音もなく床に膝をついた。
 そして恐る恐る、というような動きでその頬に指を触れさせる。
 柔らかな頬に触れた指は、ゆっくりと唇を辿り、再び頬に戻り、次いで閉じられた瞼の窪みをなぞった。
 まるで指先の細胞にその形と感触を教え込むように、飽きる事なく何度もその行為を繰り返してから、ルドラはそっとディアウスを抱き上げる。
 眠りを妨げないようにと静かに数歩歩いた所で、ディアウスの腕が意志を持ってルドラの首に回された。

「・・・あんな所で寝るな。身体を壊すぞ」

 柔らかなディアウスの頬が自分のそれに触れた瞬間に沸きあがった、何とも形容し難い強い感情の高まりを必死で押さえ込みながら、ルドラは言った。
 ディアウスは小さく頷き、ルドラの首に回した腕に更に力を込める。
 そのまま偶然を装うように首筋に唇が押し付けられ、そこでルドラはぴたりと歩みを止めた。

「二者択一だな。どっちの部屋に連れて行ってもらいたい?」
 それを聞いて、ディアウスは笑う。
「その2つの、どちらを選ぶかで結果は違うんですか?とてもそうは思えませんが」

「・・・お前も言うようになったな」
 苦笑と、それ以上の熱を帯びた声でルドラは言い、再びゆっくりとした足取りで自室に向かった。

 折り重なるように倒れた寝台の上で、ルドラはいつもより丁寧かつ執拗な愛撫を、ディアウスのしなやかな身体にくわえてゆく。
 それに応えるディアウスの反応は急速に成熟しつつあり、それをはっきりと感じたルドラの胸には、今までに感じた事のない充足感が満ちた。

 今、この腕の中にいる存在を、決して離したくない。
 手放すと考えただけで気が狂いそうな気さえした。

 自分がどういう選択をすべきであるのか・・・、いや、どういう選択を“しなければならない”のか。
 悩むまでもなく、選ぶべき答えは最初からもう定められている事を、ルドラは知っていた。

 このままここに彼を置いておけば、確実に自分は過去の過ちを再び繰り返す事になるのだ。
 戦神(いくさがみ)であるインドラが神馬を駆れば、戦場を大きく迂回しても、おそらく数日中には彼をアーディティア神殿に送り届ける事が出来る。

 インドラが他のルドラ一族の神々同様、預知者を忌み嫌っているのは間違いない。
 だが自分にああいう言い方をした彼が、途中でディアウスに害を為したりしない事を、ルドラは確信していた。
 しかし、それが分かっていても、どうしても、どうしても・・・ ――――

 あと数日、とルドラは思う。
 あと数日の間だけ、彼を手元に置いておく事を許してほしい・・・。

『数日』という曖昧な言葉でするべき事を先送りにしている自分自身を軽蔑しながら、そのやりきれない想いを紛らすように、ルドラはディアウスの身体に深く溺れてゆく。

 ディアウスはそんなルドラの“気”の乱れを敏感に察知してはいたが、施される熱い愛撫に翻弄されて、胸をよぎった疑問の形を正確に把握出来ない。
 いつにない激しく迸るようなルドラの激情を全身で受け止めて、ディアウスもまた、自分自身が変わってゆく感覚を覚えていた。
 自分では決して誇りになど思えない能力ばかりを求められて生きてきたディアウスにとって、こんな風に素のままの自分自身をただただ求められたのは初めての経験だった。
 こうして彼に抱かれている時だけ、何も怖くないと ―― 目を閉じると浮かぶかもしれない死の預知さえ恐れないと ―― 思えるのだ。

 初めて感じる強く突き上げるような快楽とそれに混じる微かな羞恥心の中、もう決して私を離したりしないでください、と言いかけてしまいそうになり、ディアウスは強く唇を噛み締めて目を閉じる。

 それはいくら望んでも、どんなに強く願っても、決して叶わない、明け方に見る儚い夢のように思える。
 堪えきれずに目じりから零れ落ちた涙を唇で拭われ、ディアウスはきつくルドラの肩に額を押し付けた・・・ ―― 。

「・・・何か、あったんですか・・・?」

 弾む呼吸が少し落ち着いた頃に、ディアウスが小さな声で訊いた。
 ルドラはすぐには答えず、手を伸ばして室内に小さな灯りをともす。
 慌てて足元にあった布を引っぱり上げて身体を隠そうとしたディアウスの腰を抱き寄せたルドラは、その耳元に唇を押し付けて、囁く。

「隠しても無駄だ。もう全部知ってる」

 笑いを含んだルドラの言葉を聞いたディアウスはさっと頬に血を上らせて俯いた。
 そんなディアウスの髪を指で梳きながら、ルドラは小さく溜息をつく。

「・・・お前に隠し事は出来ないな、本当に・・・」
「・・・隠し事・・・?」

 不安げにディアウスは眉を顰めてルドラを見上げた。
 ルドラはディアウスの額にかかる薄い褐色の髪を一筋一筋、丁寧に後ろに払ってゆく。
 ゆっくりと、優しく頭を撫でるその仕草に滲む悲しげな色を感じて、ディアウスは話の続きを促すのが怖くなる。

 やがてルドラは黙って自分を見るディアウスの瞳を、伺うようにじっと覗き込みながら、

「お前を近いうちにアーディティアに帰してやれる、ディアウス・・・」

 と、低い声で囁いた。