28 : 涙の記憶
―― アーディティア神殿に帰れる ――
ディアウスは最初、耳にした言葉の内容を上手く把握できず、ただ呆然としてルドラの顔を見ていた。
ルドラはそんなディアウスの視線を、無表情で受け止める。
その言葉の意味が、じわりとディアウスの思考を端から徐々に染めてゆく。
表情を消してその様子を見ていたルドラの顔が、ふいに和らいだ。
「・・・喜んでいいんだぞ?」
と、ルドラは言った。
しかしいつまでも、ディアウスはものが言えなかった。
驚きの余り自分ががらんどうになってしまった気がした。
やがて時間を置いてその空白部分に満ちてきたのは、喜びと表現するのには程遠い感情だった。
勿論、良かったと思わなくはない。
再び、毎日の生活の根底に死の存在を・・・自然にではなく、他人の手によってもたらされる死への恐怖を感じずに、日々を送れるようになるかも知れないのだ。
そう考えると、反射的に安堵にも似た気持ちが沸いてきた事は確かだった。
だが同時に後頭部をがつんと殴られたような、ショックにも似た衝撃がディアウスに走ったことも又、事実であった。
アーディティア神殿に帰れると、もう手放しに喜びを感じられない自分。
その目を逸らしようもない事実を知って、ディアウスは驚く。
「・・・いつ・・・?」
長い沈黙の後で、ディアウスは固い声で訊いた。
「そうだな、出来れば明日にでも。早ければ早いほうがいいと思う・・・インドラの手が空き次第、という事になるが」
「英雄神が・・・?」
「・・・大丈夫、安心していい。インドラは確かに預知者にいい感情を抱いてはいないが、今回はお前に害を為しはしない」
きっぱりとルドラは言い切り、ディアウスは頷く事でそれに答えた。
「長いこと、辛い思いをさせたな」
再度流れた沈黙を破って、ルドラが言った。
「・・・最初の頃は本当に、毎日泣きそうでしたけど」
ディアウスは無理矢理微笑みながら、言った。
「そうだな、お前が本当に泣いているのを見た事はないな・・・いや、一度だけあるか」
「・・・え?」
「あれは・・・シュナの母親が亡くなる数日前だったな、確か」
何気ない調子で言われて、ディアウスはちょっと考えてみてから頷く。
「あの時、見ていらしたんですね」
「・・・たまたま気付いたんだ。声は・・・、かけなかったが」
寝台の上に広がるディアウスの髪を掬い上げては落とす動作を繰り返しながら、ルドラは告白する。
「何故?」
興味に駆られて、ディアウスは尋ねる。
「何故・・・そうだな、何故かな・・・その方がいい気がした・・・あの時は」
「確かに・・・、あの時声をかけられたらもの凄く驚いてしまったでしょうし」
「驚くというか、あの空間に無遠慮に足を踏み入れた存在を、お前は許さなかっただろう」
そう言われて、ディアウスは改めてルドラを見上げた。
「そんな・・・許さないなんて事は、ないですけれど」
「そうかな、本当に?」
面白そうにディアウスを見ながら、ルドラは続ける。
「もしも俺があの時、お前に声をかけていたら・・・確かにお前ははっきり俺を許さないというそぶりは見せなかったかもしれない。だが少なくともその俺とこんな関係にはならなかった、絶対に」
きっぱりと断言されて、ディアウスは思い出す。
それは、まだアーディティア神殿に戦の陰が射し込んでいなかった頃。
真夜中すぎ、ディアウスはいつものように嫌な“預知夢”を見て飛び起きた。
一瞬、自分がまだ預知夢の中にいるのか、刻一刻と時を刻む現実の中に戻ってきたのか ―― どちらにした所でそれ程の大差はないとディアウスは思ったが ―― 判断がつかない。
暫く後、自分がいるのが紛れもない現実世界である事を確認したディアウスは、小さく溜め息をついてから立ち上がった。
そして部屋から直接降りる事が出来る中庭へと足を向ける。
そこはアーディティア神殿に住む位の高い神々だけが立ち入る事を許された空間だった。
一口に中庭と言ってもそこはかなりの広さになっていて、森と表現するには狭すぎるけれど林と表現するには広すぎる木立があったり、川が流れていたり、その川が流れ込んで出来た小さな湖まであった。
ディアウスは湖のほとりに腰を下ろし、そっとその冷たい水に足を浸す。
肌を刺すような冷たい水が、嫌な夢を見て激しく粟立つ心を冷やし、静めてくれる気がする。
足の皮膚の表面を撫でる水流と、小さな虫の鳴声を感じながら、ディアウスは目を閉じた。
どの位の間、そうしていただろう。
ふいに右肩に手をかけられてディアウスは短く息を呑み、その手を激しく払いのけながら振り返った。
そこには草むらに片膝をついて自分を心配そうに見つめる雨神パルジャの姿があり、ディアウスは大きく息を吐く。
「すまない、驚かせてしまったな」
と、パルジャは言い、ディアウスの頬を伝っていた涙を伸ばした指で拭った。
ディアウスはその手指から逃れるように湖に視線を戻し、涙を素早く両手で払う。
「・・・起こしてしまったのですね、ごめんなさい」
驚きの余り声が震えてしまいそうになるのを堪えながら、つっけんどんになってしまいそうな声音を必死で柔らかいものにするべく努力しながら、ディアウスは言った。
「いや、丁度起きていて、外を見ていたんだよ。そしたら君が外へ出て行くのが見えて・・・。少し待ってみたんだが、戻ってこないから心配になって」
「・・・、そうですか・・・」
「さぁ、もう部屋に戻った方がいい。今日は冷え込む・・・身体に良くない、ディアウス」
パルジャのその声に急き立てられるようにして、ディアウスは立ち上がった。
濡れて冷たくなった足を布で優しく拭かれている間 ―― ディアウスはこれを有り難いと思うべきなのだろうと何度も思った。
しかしディアウスはどうしても、そういう気持ちにはなれなかった。
こんな風に親切にしてもらっておいて、それに素直に感謝出来ない自分はなんという身勝手な人間なのだろうと、確かにあの時思ったのだ・・・ ―――― 。
そこまで考えたディアウスは自分を見詰めるルドラの首に両腕を回し、激しくその耳元に口付けた。