月に哭く

29 : 昇らぬ太陽

 強く首にしがみついた自分の身体に、ルドラの両腕が力強く回されるのを確認してから、ディアウスは囁く。

「アーディティア神群の“雨神”をご存じですよね・・・?」
「・・・無論知っている。アーディティア神群最大の戦神(いくさがみ)一族で、蒼い鱗の翼龍を支配下に・・・ ―― 」
「私は何度も彼に愛していると言われていたんです。アーディティアにいた頃」
 ルドラの言葉が聞こえていないかの様に、ディアウスは言った。

 ルドラは腕の中のディアウスが何故そんな事を今、自分に言うのかと訝しく感じずにはいられない。
 しかしディアウスにそう問われた瞬間に思い出す。

 アーディティア神群の神々と共に戦う戦場で、ふと“味方側”から投げかけられる冷たい視線を背中に感じる瞬間を。
 これまでの決して安寧な道のりとは言えない人生で培ってきた、命の危険を察知する能力。
 その能力が激しく警鐘を鳴らし、背骨を冷たい空気が撫でる。

 未だその関係が定まっていないアーディティアの神々から、不快な視線を投げられる事はそう珍しい事ではなかった。
 が、そういった視線とは全く異なる、殺意にも似た視線を感じて顔を上げると、そこには必ず彼がいるのだ。
 彼 ―― 青光りする白銀の甲冑を纏った、雨神パルジャが。

 成程、そういう事だったのか。まぁ、だいたい予想はしていたが。

 ルドラは苦々しい思いを抱きながら、ディアウスが話を続けるのを待つ。
 ディアウスはそれから長いこと黙っていたが、再び静かにひとつ、深呼吸をする。
 暖かい吐息が首筋を微かに湿らせるのを、ルドラは感じる。

「でも私は誰にどう言われようと、彼の想いに応える気はなかった。誰もが・・・妹さえ、私が何故彼の想いをそんなにも頑なに拒絶するのかと訊きました。
 それが何故か ―― 私が何故彼を拒絶し続けていたのか、分かります?」
「・・・いや、全く見当もつかないな。雨神を知っていると言っても、戦場で数回見掛けたという程度なんだ」
「そう言わずに、ちょっと考えてみて下さい」
 ディアウスはルドラの肩と首の間にこめかみを押し付け、その胸に走る白い傷跡を指先で辿りながら言った。
 ルドラはディアウスの細い指先の感触だけに神経が集中していってしまいそうになるのを堪えながら、考える。

 しかしどう考えてみても、まともな答えは浮かんで来なかった。
 ルドラは幾度も初めから考え直してみたが、5回目の挑戦が失敗に終わったところで諦める。

「あの薄い水色の瞳が生理的にどうも好きになれない ―― とかか?」
 少し肩を竦めてルドラが言うのを聞いたディアウスは笑いだす。
「それはもしかして、降参という意味ですか?」
「突き詰めて言うと、そういう事になるかもな」
 と、ルドラは真面目な顔で認めてから、笑う。
「・・・殆んど面識のない男との事を聞かれても、分かる訳がない。
 ・・・それで、何が理由だったんだ?」

 面識のあるなしは関係ないんですけれど・・・。と、ディアウスは呟いてから、ルドラの胸から指先を離した。
 そして言う。
「彼が戦神(いくさがみ)だったからです」
「・・・え・・・?」
 思いがけないその返答を聞いて、ルドラはディアウスの髪を撫でていた手を止めた。
 ルドラの反応を気にすることなく、ディアウスはそのままの声音で、話し続ける。
「私は小さい頃から・・・、自分に下ろされる預知が死というものに彩られていると知った時から・・・、戦神(いくさがみ)を愛する事だけはしないと心に決めていたんです」
「・・・成程ね・・・。つまり雨神パルジャ自身がどうのこうの、という訳ではなかった・・・?」
 躊躇いがちに、ルドラは口を挟む。
 ディアウスは小さく笑っただけで、はっきりとした肯定も否定もしなかった。
「勿論、戦神(いくさがみ)でなければ誰でもいいと思っていた訳ではありません。でも・・・戦神(いくさがみ)は他の人よりも多く危険に晒されるでしょう・・・?戦の多い今の時代に、戦神(いくさがみ)を愛する事を選んだら・・・想像するだけで怖かったのです。
 仲良くしている訳ではない、知り合いの域を出ない戦神(いくさがみ)の死の預知を見るだけでも辛いのに、それが愛した人だったら・・・そう考えると・・・、私は・・・」

 そこでディアウスは言葉を切る。
 そしてルドラの胸に、そっと頭を凭れさせた。

「それに戦神(いくさがみ)であるないに関わらず、私は誰かを ―― 何かを、と言ってしまってもいいかも知れませんが ―― 激しく欲する事をしたくなかった。いつか夢でその存在が・・・かけがえのない存在になった存在が損なわれてしまう光景を目にしなければならないのであれば、永遠に独り孤独に耐える方がいい、と」

 それは切なく、苦しく・・・そしてルドラからしてみれば、驚くべき独白であった。

 遠い昔、両親に売られ、その事実を理解した時に感じた想い。
 外見だけに捕われ、決して“自分自身”を見てはくれない周りの人々への儚く淡い期待と、そんな期待を抱いても意味がないと理解した瞬間の苛立ちと諦め。
 それでいながら ―― 期待しても仕方ないと分かっていながらも ―― 心の底に隠し持った暖かく優しいものへの渇望にも似た憧憬。
 そういった自分が抱えてきた思考の本質がそっくりそのまま写し取られ、それが他人の口から他人の思考として語られるのを聞く不思議さ・・・。

「でも・・・、例えどんなに固く決心したとしても、こればかりは自分の思い通りにはならないのですね」
 と、ディアウスは自嘲気味に言った。
「そういった想いというものは多分、川に落ちた木の葉と同様なのでしょう。一度落ちてしまったら、後はもう流されてゆくだけ ―― そこに意思や過去に取り決めた希望が入り込む余地などない。
 私はあなたに会って初めて、それを・・・」
「もう、やめた方がいい」
 黙ってディアウスの話を聞いていたルドラがそこで、静かだが断固とした声で言った。
「それ以上は言わない方がいいと思う・・・おそらく」

 ルドラの忠告を聞いて、ディアウスは口をつぐむ。

 深い静けさが2人を包んだ。
 沈黙の深さを心を澄ませて測っていたディアウスは、やがてそっと、そうですね。と言った。
 そしてルドラの腕から抜け出して、身体を起こす。
 寝台から降りようとしたディアウスの腕を、ルドラが強く掴んだ。
 そしてルドラはそのまま再び自分の腕にディアウスを抱きこみ、
「いちいち帰らなくていい」
 と、囁く。
「・・・でも、私と寝ると大変ですよ?」
「大変?何故?」
「私は夜中に叫んで飛び起きて、その後で更に泣き喚き出したりする事があるので・・・」
 と、ディアウスは苦笑と共に言った。
「だから私は昔から、人と一緒には眠らない事に決めているんです」
「・・・一緒に眠っている人を起こしてしまうのが申し訳ないから?」、とルドラは尋ねる。
「そうです」、とディアウスは頷く。

 ルドラはそれについて少し考えてから、口を開いた。
「では俺は、お前の泣き声で目覚めても、強固に寝た振りをし続けることにしよう。それなら問題ないだろう」
「寝た振り?」とディアウスは驚いたような声で言い、それからひとしきり笑った。「そんな提案をしたのは、あなたが初めてです」
「そう?」
「ええ」
 ディアウスは深く頷き、ルドラの背中に手を回してきつく身体を摺り寄せる。

 ルドラはそれ以上は何も言わず、ただ黙ってディアウスの細い身体を抱いた。

 自分を抱くルドラの肩越しに見える、格子戸が半分降ろされた窓をディアウスは眺める。
 目を閉じてしまう事無く、いつまでも。

 あの窓辺を、いつまでも夜の闇が支配していればいい。
 太陽など金輪際、空に昇らなければいい。

 どんなに願った所で叶えられる事のない願いを繰り返しながら、ディアウスはいつまでも、格子戸から覗く外の景色を見詰めていた。