30 : 波乱の芽
翌日の夕方、久々にルドラはマルト神群の神々が集まる部屋に姿を現した。
入り口にかけられた分厚い布を跳ねあげてルドラがその部屋の入り口に姿を現した途端、ざわついていた部屋は水を打ったように静まり返る。
そんな緊張した雰囲気を意に介する事なく、ルドラは部屋に足を踏み入れた。
弾かれたように、神々が道を開ける。
ルドラは足取りを緩めず、つかつかと奥に据え置かれた椅子に向かって歩いてゆく。
「何か報告は」
どさりと椅子に腰を下ろしたルドラが言った。
「王、まず何よりも ―― 」
「あの下らない話の続きをするつもりなら、俺はすぐこの部屋を出て行くからな。最初に言っておくが」
と、ルドラは最初に口を開いた神の言葉をぴしゃりと遮って、言った。
ぐっと唇を引き結び、その神は黙った。
「報告」
ルドラは低い声で繰り返す。
少しの沈黙の後、それぞれが担当する地域で得た情報や異変の有無を報告しだす。
総じて特に大きい問題は起こっていなかった。
アスラ神群とは依然静かな睨み合いが続いており、ヴリトラの息子達も、姿を見せないままだった。
「・・・では皆、そのまま今までと同様に情報収集に当たるようにしろ。この宮殿の警備だけは厳重に ―― ところで四天王はどうした?姿が見えないが」
ぐるりと室内を見回して、ルドラは聞いた。
「数時間前、結界の様子を見ると言って出掛けてゆきました」
と、インドラが答える。
ルドラは小さく頷く。
「そうか、では戻ったら報告を上げるようにと伝えろ ―― インドラ」
「はい」
「お前はここに残れ。話がある」
「・・・御意」
王と英雄神のやりとりを聞いた神々は一斉に立ち上がり、部屋を後にしようとした。
しかしその時 ―― 先頭にいた神が部屋を出る前に ―― 2つの人影が、入り口の布を引き裂くような勢いで部屋に転がり込んで来た。
床に倒れ伏したその2人の姿を見て神々は驚き、立ちすくむ。
漂う血の匂いに気付いたルドラが、2人を取り囲む神々を押しのけて出入り口に立つ。
「ミトラ!!何事だ!!」
鮮血が滴るアガスティアの腹部を強く押さえ、自らも血まみれになったミトラが、王の声に顔を上げる。
「宮殿の結界が・・・アスラに破られました・・・!」
信じ難いその報告に、神々は一斉に息を呑んだ。
ルドラは一瞬眉根をきつく寄せたが、直ぐに表情を消す。
「どこの」
「メーダの森の南 ―― 朱雀殿裏手を流れるストレージュ河の、上流一帯です」
呻くように、ミトラが言う。
「南だと!?」
「朱雀殿の守りが破られたというのか・・・!?」
「そんな馬鹿な・・・!!」
周りの神々から一斉に、そんな声が沸きあがった。
この龍宮殿の南、朱雀殿はアスラ神群の拠点、アスラ宮とは真逆に位置する。
そこからアスラが攻撃してきたことなどこれまでに一度もなかったし、そこへアスラの手が回るのに気付かないなど、誰一人として想像すらしていなかったのだ。
ざわつく神々を、インドラが鋭く手を上げて黙らせる。
「それで、結界は。まだ破られたままなのか」
と、インドラが尋ねる。
「いえ、一応張り直してからここへ・・・ただ結界を張り直す際に制止を振り切ってタパスが1人で結界の外に出て行ってしまい・・・、それを追いかけて、ヴァルナも・・・」
そこまで聞いた所でルドラは、アガスティアの傷の手当てをするようにと周りの神々に指示を出す。
茫と立ち竦んでいた神々の何人かが慌ててアガスティアに応急処置を施した後、別室にその身体を運んでゆく。
それを見届けてから、ルドラは部屋に飛び込んで来た時のままの格好で座り込むミトラを見下ろし、
「それで?」
と、話の続きを促す。
「・・・そして・・・結界を張り直す途中でアガスティアが敵の刃を受け・・・、そうなるともう・・・アガスティアを守るだけで精一杯で ―― ヴァルナとタパスを探す事までは出来ず・・・」
「『マルトの四天王』の結界がそんな簡単に破られるとは・・・しかもそれを実際破られるまで気付かなかったと言うのか?何と言う情けない・・・!!」
と、インドラが険しい表情でタパスを叱責する。
「・・・申し訳ない・・・っ!しかし・・・、未だに何故あんな事になったのか分からないのだ・・・!
アスラが南に回り込むのに全く気付かないなど、到底考えられない・・・!」
「しかし実際にアスラに結界を破られているんじゃないか!何故こんな事になったのだ、お前たちは日々の警戒を・・・ ―― 」
「今は理由や原因などどうでもいい!」
と、ルドラがインドラとミトラの言い合いを激しく遮る。
「結界の綻びからアスラの悪魔が入り込んでいないか調べろ、至急だ!!内側から仲間を ―― ヴリトラを召喚されでもしたら取り返しがつかないぞ!!」
立ち尽くしていた神々の幾人かが王のその声によって我に返る。
数人の神々が部下を伴って次々に部屋を飛び出してゆく。入り口にかけられた布が翻り、それが床に再び落ちかかる前に、ルドラはインドラに向き直る。
「すぐに全ての戦神(いくさがみ)をこの龍宮殿に集めろ。これはきっかけに過ぎないだろう、あの悪魔め、まだ何か考えているに違いない。サヴィトリー!・・・サヴィトリーはどこにいるんだ!」
「四天王を見送りに出て、そのまま姿が・・・」
「いえ、私はここにおります、王」
インドラの言葉を遮り、サヴィトリーが微かな布の揺らぎと共に部屋に入って来る。その手には一通の書状が握られていた。
「結界に異常を感じたので、神馬を駆って様子を見に行っていたのです」
と、サヴィトリーは冷静な声音と顔色で、言った。
「無茶をするな!」
と、インドラが驚いて叫ぶ。
「命を落とすぞ、戦神(いくさがみ)でないお前が ―― 」
「・・・その書状は?」
張り詰めた声で、ルドラが聞く。
サヴィトリーはインドラからルドラへと視線を転じ、手にしていた書状を差し出す。
「結界は完全に修復されていましたが、その内側にこれが ―― ヴリトラからの書状かと・・・」
サヴィトリーは言い、差し出した書状を空中で裏返す。
そこには黒みがかった赤い印が押されていた。
右手で牙をむきだした野犬の喉元を掴み潰し、左手に奇妙な形に歪んだ三叉矛をかざした悪鬼の焼印。
アスラ神群が唯一信奉する、悪魔ヴリトラの姿をうつしたその印は、未だ焦げ臭い匂いを周囲に漂わせるかのようであった・・・ ―――― 。