31 : 取引
短い沈黙の後、ルドラはサヴィトリーが差し出した書状を受け取った。
重い足取りで部屋の片隅、赤々と燃える暖炉の側に寄ったところで、ルドラは書状を開く。
部屋に残った神々は固唾を飲んでその姿を見守った。
書状を開いたルドラはそこに書かれた文章に素早く目を通してからそれを元通りに折り畳み、何気ないやり方で火の中に投げ込む。
書状が跡形もなく灰になりきるのを確認してから、ルドラは神々に向き直った。
「ヴリトラは何と・・・?」
「ミトラ、怪我はないようだな」
インドラの問いには答えずに、ルドラは言った。
漸く床から立ち上がったミトラが、前に進み出て頭を下げる。
「では、必要と思うだけの戦神(いくさがみ)を連れて出陣しろ。何としてもタパスとヴァルナをアスラの悪魔どもから取り返せ。それまでは帰って来なくていい」
静かな怒りに満ちた王の命令に、ミトラが頭を下げかけた時、サヴィトリーが低い声で言う。
「・・・2人と引き換えにあの預知者を渡せというヴリトラの要求通り、あの者も共に連れて行かせてよろしいですね?」
ルドラは激しい驚愕の色を顔に浮かべ、サヴィトリーを見た。
「お前 ―― あの書状を俺より先に読んだのか?」
「はい」
全く悪びれる様子なく、サヴィトリーは王の問掛けに肯定の返事を返す。
「お前・・・自分を何様だと・・・!」
「お叱りはいくらでも受けましょう。しかし王、まさかに我らがマルト神群の戦神(いくさがみ)の身よりも、あの預知者めの身を守ろうと言うのではありますまいな?そんな事を考えているのではありますまいな・・・?」
サヴィトリーのその問い掛けを聞いて、神々は一斉に自らの王を凝視する。
ルドラは開きかけた口を、自分に注がれる視線に気付いて閉じた。
そして口許を歪め、鼻から抜けるような笑いを漏らす。
「・・・当たり前だ。誰か天神を・・・あの呪われた力を持つ神をここへ引っ張って来い。かなり抵抗するであろうが・・・」
壁ぎわの暖炉を離れ、部屋の出入り口へと戻りながらルドラは言う。
「・・・さぁ、誰が行く?確かにあれの呪咀の力は凄まじいが、呪いを受けた瞬間に死ぬ訳ではない。まぁ、あれを思うさま抱きつくした俺も、今回ばかりは自ら呪いを受けるのは恐ろしいが」
喉の奥で低く笑いながら、ルドラは順番に居並ぶ神々を見回した。
神々の殆どが、ルドラの視線を受けるのと同時に怯えたように視線を逸らしてゆく。
「・・・私が」
重い空気の中、名乗りをあげたのはサヴィトリーだった。
「ルドラ王とマルト神群の為ならば・・・、呪い殺されたとて、悔いなど覚えません」
「・・・素晴らしい。戦神(いくさがみ)より頼るに足るな、お前は・・・サヴィトリー」
感心したようにルドラはその背中に手を置いた。
そしてサヴィトリーの背に宛てがった手に力を加えながら、出入り口へと歩を進める。
時が止まったかのように、誰もが身動きひとつせずに2人の後姿を見送る中。
インドラだけが“その瞬間”の半瞬前に異変を察知し、ルドラの背中に駆け寄った。
「お待ちを、王・・・ ―― ッ!!」
インドラの悲鳴にも似た声にサヴィトリーが驚き、振り返ったその時、2人の ―― ルドラとサヴィトリーの間に透明な衝撃が走った。
伸ばされたインドラの手が、唐突に生まれた透明な壁に阻まれて跳ね返る。
「・・・王・・・ルドラ王!!」
部屋の出入り口に張った結界の向こうで叫ぶインドラの姿と、血走った目をして自分を見るサヴィトリー、その後ろでただ呆然と立ちすくむ戦神(いくさがみ)達に背を向けて、ルドラは自室に向かって駆け出した。
空気の抵抗を生むマントを途中でかなぐり捨て、人気のない廊下を選びながら自室に向かう。
間に合わせで張ったあの程度の結界など、あれだけの戦神(いくさがみ)の前では長くは持たない事を、ルドラは承知していた。
どんなに長く持ったとしても、数十分だろう。
そう思いながらルドラは自室の戸の鍵を開け、取っ手を回すのももどかしく室内に飛び込む。
すぐさま暖炉に向かい、その柵を石枠から引き抜き、燻っている灰を全て床にかきだす。
その音に驚いたディアウスが部屋から顔を出した。
「・・・ルドラ王、一体何ごとです・・・?」
ディアウスの問いかけに顔を上げることなく、ルドラは灰を全てかきだした後の暖炉の奥に右腕を突っ込んだ。
恐る恐るルドラの背後に立ったディアウスの前で、暖炉の奥の壁が鈍い音を立てて開く。
ルドラはその隠し扉を開ききってから立ち上がり、ディアウスへと向き直った。
そして青ざめて立ち竦む彼の手首を、強く掴む。
「俺は扉を閉めてから降りる。お前は先に降りてくれ。階段になっているから気をつけて」
「・・・ルドラ王、これはどういう・・・」
「今は説明している暇はない!」
焦れたように部屋の扉を見やりながら、ルドラは荒々しく叫ぶ。
「外に出る途中で説明してやる、とにかく今は早く中へ!」
切羽詰ったようなルドラの声を聞いて、ディアウスは無言で身を屈め、暖炉の奥の隠し扉をくぐった。
中は真っ暗で、微かにかび臭い、古い空気が充満している。
ディアウスは扉の奥にある石の階段を一段一段、確かめる様にゆっくりと降りて行った。
ルドラはかき出した灰が広がる床を机の下に敷いていた敷物で覆い隠してから、自らも暖炉の奥の隠し扉をくぐり、注意深く扉を閉め切った。