33 : 別離
だがルドラがディアウスの額に口付けていたのは、ほんの一瞬の事だった。
その顔は直ぐに、悲壮なまでの決意に満ちた表情を浮かべて上げられる。
腕の中の身体を横抱きに抱き上げて再び歩きだそうとしたルドラはしかし、歩き出す前にギクリとして動きを止めた。
闇の向こうに微かな物音が ―― 人の気配がするのに気付いたのだ。
ルドラは強く唇を噛む。
まさかこんなに早くこの通路に追っ手が入り込むとは思わなかったが、その考えも甘すぎたのかもしれない。
ルドラ一族内部の人間関係や情報の流れは奥に行けば行く程混沌としていて、王であるルドラにも分からない部分が多々あるのだ。
この通路の存在が本当の意味で王にだけ伝えられているという確信など、最初から持っていなかった。
左肩にディアウスの身体を抱え上げ、ルドラは静かに剣を抜く。
足音が壁に反響して人数は正確には計れないが、それ程の大人数ではない。
多くても2人か、3人くらいのものだろう、とルドラは考える。
その位の人数であれば、左手が使えなくても全員片付けられる。
しかしその後、人数が増えたら・・・ ――――
上等じゃないか、とルドラは考え、暗闇でにやりと笑った。
アスラの悪魔どもを切り刻み、その血で身体を洗う前に同胞の血でもって禊をするだけのことだ。
なにも、難しい事ではない。
そう考えながら剣を構え直した時、暗闇の向こうから聞こえたこちらを窺うような小さな声にルドラは愕然とし、同時にその名を叫ぶ。
「シュナ・・・!!」
「申し訳ございません、ルドラ様」
闇の中から姿を現したシュナは先ず、早口で謝罪の言葉を口にした。
「父に昔、万が一の時にルドラ様の助けになるようにと、ここの事を教わっていたのです」
「そうか・・・」
こくり、とシュナは頷く。
「この事が役に立つ時が来たら、ルドラ様に謝っておいて欲しいと父は何度も私に言っていました。自分を信頼して教えて下さった重要な秘密を、他に漏らした事をお許し下さいますように、と」
「お前達親子に膝を折って許しを請わねばならないのは俺の方だ」
同じ様に早口で、ルドラは答えた。
「しかしシュナ、もうお前に手伝って貰える事は何もない。早く城から離れるんだ。出来うる限り遠くまで」
「いいえ、そんな訳には参りません」
きっぱりとシュナは言い、頭から被っていた黒いマントを身体から外した。
「私はルドラ様とは逆の方向に行って、戦神(いくさがみ)の方々を引き付けます。ディアウス様が着られているマントを私に貸して下さい」
「馬鹿を言うな、駄目だ!そんなのは危険過ぎる!!」
「もう言い争っている時間はありませんよ、ルドラ様。私が上の城を抜けて来た時、上はもうかなりの騒ぎになっていましたから。私は何と言われてもそれをする積もりですから、思い止まらせようとなさっても無駄です」
「・・・どうして、そんな・・・」
「父の気持ちが、ようやく・・・本当の意味で分かったからです」
手早くルドラが抱えているディアウスのマントと自分の黒いマントを交換しながら、シュナは言った。
「私自身もディアウス様には良くしていただきましたし・・・、それにルドラ様の大事な方がヴリトラの生贄にされるのを助ける手伝いをせずに逃げたりしたら、父に叱られます」
「・・・お前・・・、それも、知って・・・」
手早く髪や肌を覆い隠すようにきっちりとマントを引き被るシュナを、呆然としてルドラは見下ろした。
くすりと笑ってシュナは顔を上げる。
「ええ、知っていました。何故知ったのかは ―― 今、話している暇はありませんね。
ルドラ様、東と南にはもう人が向かっているようでした。少し遠回りになりますが、北の森の端に出る出口でしたらまだ戦神(いくさがみ)の方々に知られていないかもしれません。お急ぎになって下さい」
そう言いながら走り出そうとしたシュナの名を、ルドラが呼んだ。
振り返ったシュナに、ルドラは言う。
「ディアウスを逃がしたら、直ぐに戻る。それまでは何としても逃げ切ってくれ。いいな、シュナ。命令だ」
布の隙間から覗かせた目だけでかすかに頷き、シュナは踵を返す。
その背中が闇に溶けるのを心配そうな目で見送りながら手にしていた剣を鞘に収め、ルドラも又、北の方角へと足を向けた。
迷路の様に入り組んだ地下通路を、迷ってしまわないように細心の注意を払いつつ、出来るだけ早く進む。
やがて北側の森に出てみると、シュナの言っていた通り、そこにはまだ城内の混乱は届いていないようだった。
とりあえず安心したルドラは、タールクシアの名を強く念じながら、暗く垂れ込めた空を見上げる。
かつて、昼でも厚い雲と霧に満ちたこの暗い空を嫌っていたルドラだった。
だが今はそれを、心底有り難いと思う。
この濃い雲と霧は、空から自分の元へ駆け降りて来るタールクシアの姿を隠してくれるだろう。
後は先程から大気を轟かせている雷の光を受けて輝く神馬の鱗が、血眼になって自分を探しているであろう戦神(いくさがみ)達の目を引かない事を祈るだけだった。
だが、いつもならすぐに天から駆け降りて来る筈のタールクシアは、中々その姿をルドラの前に現さない。
焦れたルドラが小さく舌打ちを漏らしかけた時、翡翠色の影が森の木々と白い霧の間から物凄い勢いで駆け出して来た。
主の杞憂を敏感に察知し、かなり離れた場所に一旦降りてから、大地を駆けて来たのだ。
無言の労いを込めて首筋を撫でてやると、タールクシアは気持ち良さそうに小さく嘶いた。
ルドラは両腕に抱えていたディアウスの身体を神馬の背に乗せた。
そしてその身体をシュナが着ていた黒いマントできっちりと覆い、自らの身体に幾重にも巻きつけている帯の幾つかを外してディアウスの身体をタールクシアの胴に縛りつける。
ディアウスがきちんと馬の背に固定されている事を確認してから、ルドラはタールクシアの正面に回って黄金色に輝くその目を覗き込んだ。
「前に一度行ったアーディティアの神殿を覚えているな?美しい黄金色の城だ。あそこまで彼を運んでくれ。分かるな・・・?」
タールクシアは反応を示さず、ただ黙って主の視線を受け止める。
「なるべく人気のない空間を選んで、静かに・・・しかし出来るだけ早く走ってくれ。長くなると彼の体力が持たないだろうから。いいな、頼んだぞ、タールクシア」
小さく、悲しげな声で嘶きながら鼻面を押し付けてくるタールクシアの首に両方の掌を押し付けるようにしながら、ルドラは囁く。
「アーディティア神殿に着いて彼を降ろしたら、直ぐに俺の元に戻ってきてくれ。戦場で待っている・・・また共にアスラの悪魔どもを八つ裂きにしてやろう」
そう言うと同時に、ルドラは神馬の右側の首を押した。
「さあ行け!早く!」
鋭いルドラの命令に、一度だけ前足で地を蹴り上げたタールクシアは、滑らかな弧を描いて空間に駆け上がる。
最後の一瞬、その背に乗った ―― マントに包まれた存在に触れようと伸ばされたルドラの手は、温もりには届かない。
中途半端に上げた手を下ろし、タールクシアの姿が瞬く間に暗い空に飲み込まれてゆくのを確認してから、ルドラはもう後ろを振り返る事無く、再び地下通路の暗闇にその身を沈めた。