月に哭く

34 : 裏切り

 暗闇の中、耳を澄ませながら注意深く進んで行ったシュナは、幾つか目の曲がり道に差し掛かった所で躊躇いがちに足をとめた。

 右に行くとその上はルドラ王の自室だ。
 多分その周りには沢山の戦神(いくさがみ)達がいるだろう。
 左側の通路の突き当たりからは、王の部屋へと延びる廊下の始まり部分に出られる筈だった。
 とりあえずそこへ姿を出して戦神(いくさがみ)達の目を引き付け、再び近くの隠し扉から地下通路に戻ろう、とシュナは思う。

 危険すぎる行為である事は分かっていた ―― しかし少しでも長く戦神(いくさがみ)達の目を北から逸らさなくてはならないのだ。
 一か八か、やってみようと決意したシュナは、左の通路を選んで歩き出す。
 やがて突き当たった壁にある筈の隠し扉を探して、冷たい土の壁を両手で探る。

 そのシュナの背後で、ふいに闇が揺らめいた。
 鼻をつく古い空気に瘴気にも似た嫌な匂いが混じり、振り向いたシュナの二の腕を冷たい、ぬめりとした感触な手が強く掴んだ。
 思わず悲鳴を上げそうになったシュナの口を、素早く伸びて来た手が塞ぐ。

 その余りの気味悪さに激しくもがくシュナの耳を、聞きなれた声がうつ。

「・・・落ちつけシュナ。私だ」

 その言葉と共に、シュナを捕えていた手が、腕と口から離れてゆく。
 振り向きながら、シュナはその人物の名を口にする。

「サヴィトリー様・・・!!」

「シュナ」
 と、再びサヴィトリーは言う。
「王がどちらに行かれたか、知っているな」
 サヴィトリーはいつものゆったりとした口調で尋ねた。
「私は王に全てを聞いている。微力ながら、王の手助けをしたいのだ。・・・王は・・・ルドラ王はどちらへ行かれた?」

 シュナは一瞬、その問いに答えかけた。
 しかし先程感じた瘴気と自分の腕を掴んだサヴィトリーの手の気味悪い感触を思い出して、開きかけた口をつぐむ。

「・・・知りません」、とシュナは答えた。
「シュナ」、と奇妙にねじ曲がった声で、サヴィトリーは言った、「分かっているのだ。お前は王に会っている。言うのだ、王は何処に向かわれた・・・!!」
「存じません・・・!」
「小娘が・・・っ!!」
 ぎり、と唇を噛んでサヴィトリーは吐き捨てるように叫んだ。
 自分に向かって伸びて来た手から反射的に身を引いて、シュナはサヴィトリーの脇をすり抜けて駆け出した。

 この地下通路へ降りて、するべき目的など、シュナの脳裏から消え去っていた。
 ただサヴィトリーが発する、どこか異様な雰囲気に震えるような恐怖を感じて、堪らなくなったのだ。

「逃げられると思うのか!!」

 苛立ちと嘲笑と蔑み ―― そして笑いさえ含んだ声と共に強く腕を、次いであのぬめりとした手がシュナの身体に巻き付く。

 絶望の色に彩られた悲鳴が、暗闇を引き裂いた・・・ ――――

 何か、とんでもないことが起きようとしている。

 自室に向かって地下通路の暗闇を駆けながら、ルドラのその確信はどんどん強くなっていった。

 冷静に考えてみれば、おかしすぎる、何もかもが。
 結界の異変を四天王がこぞって誰も気づかないなどという事は、どう考えても有り得ないのだ。
 結界が破られた事はこれから起きるであろう様々な事件の中では、些細な出来事になるのではないか・・・。

 そんな嫌な予感を抱きながら自室へと繋がる通路に足を踏み入れかけたルドラの耳を、悲鳴が打った。

「シュナ!!」

 声の主の名前を呼びながら、ルドラは悲鳴の上がった通路に駆け込む。
 通路の奥に広がる光景を見てルドラは目を疑い、立ち竦んだ。

 立ち込める血の匂い、石の床に広がる暗がりでも分かるほど大量の鮮血、そしてその只中に立ち、床に横たわるシュナに今にも止めを刺そうと手を伸ばしているのは・・・ ――――

「やめろ!!何をしているのだ、サヴィトリー!!!」

 激しいルドラの声に、サヴィトリーはどろんとした視線を上げた。

「・・・ルドラ、王・・・」

 荒々しい足取りでサヴィトリーに近付き、ルドラはサヴィトリーの肩を突き飛ばした。
 軽い動作であったが、サヴィトリーの身体は半分宙を浮くようにして壁に叩きつけられる。
 ずるずると壁に沿って崩れ落ちるサヴィトリーに目もくれず、ルドラはシュナの上に屈みこむ。

「シュナ ―― シュナ・・・!」

 かけられたルドラの声に反応して、シュナの瞼が数回震えた後に開かれる。

「シュナ、しっかりしろ・・・!直ぐに手当てをしてやるから・・・!」
「・・・を、つけて・・・」
「・・・なに・・・?」
 囁くようなシュナの声を聞き取ろうと更に身体を屈めたルドラに、シュナは言う。
「気を、つけて・・・下さい・・・私・・・、何かが・・・、お、かしいって・・・」
 必死で声を絞り出すように言われて、ルドラはゆっくりと振り返る。
 壁にもたれていたサヴィトリーが、異様な光を湛えた目で、ルドラを見ていた。

「あなたが、いけないのだ・・・」
 と、サヴィトリーはひたとルドラを見詰めたまま、低く呻いた。
「サヴィトリー・・・?」
「あなたが、いけないのだ!!あなたが、あんな禍々しい者に執着したりするから・・・っっ!!」
 突如、狂った様に叫びながらサヴィトリーは床を這うようにしてルドラに近付き、その足首を掴んだ。
「あの預知者を貢物として奉げれば、全てが上手く行くように取り計らってあげたのに・・・!こんな風にならずに、済ませようと思っていたのに・・・!あなたがいけないのだ、ルドラ・・・!!!」
「何を言っているんだ、お前は!よく考えろ、今の時点でアーディティアを敵に回すのは・・・」
「それは詭弁だ!!あなたはただあの預知者を ―― 天神を生贄にしたくなかっただけだ・・・最初から!そうでしょう・・・!!」
「それは・・・」
「最初から分かっていたのです、そうだ、最初から・・・!もうおしまいです、もう何の言い訳も出来ない・・・!ヴリトラ様も、もう許しては下さらない・・・っ!!」
「ヴリトラ『様』だと・・・?」
 怒りの余り、身体を震わせながらルドラは言った。
「貴様、裏切ったな、サヴィトリー!!」

 頭を抱えてうずくまるサヴィトリーの手を蹴り上げ、ルドラは引き抜いた剣の柄でサヴィトリーの横面を激しく打った。