35 : 死の影
頭部を殴打されたサヴィトリーが床に倒れて動かなくなったのを確認してから、ルドラは再びシュナの傍らに跪いた。
「シュナ・・・」
「ルドラ様・・・私・・・」
「喋るなシュナ、今、手当てをしてやるから・・・」
そう言いながらも、ルドラには分かっていた ―― シュナの傷が致命的なものである事を。
ディアウスがいない今、この傷を治せる者はマルト神群にはいないであろう事を。
それでも諦める事が出来ずに、ルドラはシュナの肩にかかっていたディアウスのマントで、未だに鮮血が流れ出している傷を強く押さえた。
「ルドラ様・・・ディアウス様は・・・?」
「喋るんじゃない、・・・」
「・・・無事に・・・、お逃げになられました・・・?」
ルドラの言葉を聞かずに、シュナは尋ねる。
「・・・タールクシアに委せたから、大丈夫だ・・・例え追手がかかったとしても、アーディティア神殿までは逃げ切ってくれるだろう」
低い、微かに震える声でルドラは答える。
「・・・そうですか・・・、タールクシアに・・・」
シュナは力ない視線をあげ、物言いたげにじっとルドラを見詰めた。
その視線を受け止めたルドラは堪えきれずに低く呻く。
「俺は間違っていたのか・・・?自分の望みばかりを優先し ―― タールクシアは万に一つも戻る事はないだろう、そして更にお前までをも犠牲にして・・・俺は・・・!」
「・・・父が・・・父が生きていたら・・・きっと同じ事をして、悔いなど・・・、私とて・・・」
「シュナ・・・!!」
苦し気に目を閉じたシュナを、ルドラの腕が抱き上げる。
目を閉じたまま、緩慢な動作でシュナの右手が上げられる。
おぼつかない動きで胸元に差し込まれた手が、首にかけられていた小さな袋を引き出す。
「ルドラ様・・・これを・・・、この石を・・・、ディアウス様に・・・」
「自分で渡せ・・・」
「どうか、ルドラ様・・・お願い・・・」
「・・・分かった・・・何時の日か、会える事があれば必ず・・・!しかし、シュナ・・・!」
「・・・希望を・・・、お捨てになりませんように・・・、ルドラ王・・・、どうか・・・・・・」
囁くように言ったシュナの手が、力を失って胸の上に落ちる。
次の瞬間 ―― ルドラは自分が腕に死者を抱いてその場にいる事を、知った。
ルドラが廊下の向こうから歩いて来るのに気付いた戦神(いくさがみ)達は一瞬、その顔に激しい怒りの表情を浮かべた。
が、ルドラの様子とその手に引き摺られるようにして歩いてくるサヴィトリーの姿を見て、一様に口をつぐむ。
「ルドラ王、これは一体・・・」
全身が血に染まったような状態のサヴィトリーが、床に突き転がされたのを見て、インドラが問う。
「こいつが、裏切っていたのだ。アスラに、ヴリトラに寝返り ―― 四天王の結界を破らせた」
いまいましげにサヴィトリーの足を蹴りあげながら、ルドラは答えた。
「裏切り・・・!?」
「まさか、そんな!!」
「本当なのか、サヴィトリー・・・!?」
戦神(いくさがみ)達が口々に叫ぶ。
サヴィトリーは唇を震わせて顔を伏せた。
「それでは・・・まさか、タパスとヴァルナも・・・!?」
色を失った声でインドラが尋ねる。
ルドラは鼻で笑い、首を微妙な形に振った。
「ヴァルナは違う」
「では、タパスも・・・ ―― !!」
「驚いている暇はないぞ。四天王のうち1人が敵につき、もう一人が奪われているとなると、結界などなくなったようなものだ。こいつがどこまで敵方にこちらの情報を流しているかも、分かったものじゃないしな。
直ぐに全軍に戦闘準備をさせろ。アーディティア神群にも至急兵を出すようにと伝令を飛ばせ!」
王のその命令を聞いた戦神(いくさがみ)の一人が、足音も荒くルドラの前に立ちはだかり、言った。
「王、あの預知者はどうなされた?」
ざわめいていた空間が、再びしんと静まり返った。
「アーディティアに返した」
まるで当たり前の事の様にルドラは答え、その開き直った様な回答ぶりに、居並ぶ戦神(いくさがみ)達の顔に怒気が漲る。
ルドラは無表情に自分の周りに視線を泳がせてから、にやりと笑った。
いきり立とうとする戦神(いくさがみ)の幾人かを慌てて止めようとインドラが身を乗り出す前に、ルドラが口を開く。
「今、アーディティアと事を構えるのは果たして得策だと思うか・・・などと言っても納得はするまいな」
「・・・何・・・!!」
「ヴリトラの要求通り天神を渡したとしても、向こうがヴァルナとタパスを返すとは思えないと言っても、言い訳にしか聞こえないだろう。助けたかったから助けたと言っても、納得はするまい。何をどう言っても、納得はするまい?」
そこで再び、ルドラは笑って見せる。
「 ―― ならば何を言ったところで、無駄な労力を使う事になるな。話す方も、聞く方も」
「・・・っ、よくもそんな・・・!!」
怒りに震えた戦神(いくさがみ)の一人が剣を鞘走らせる。
振り下ろされた剣の刃を、ルドラは表情を変えずに強く掴んで止めた。
刃を掴んだルドラの腕と剣を、ゆっくりと血が伝い落ちてゆく。
「今俺を殺して、アスラの悪魔とどう闘うつもりだ」
と、ルドラは言った。
「俺抜きでアスラと闘えると思うのならば、殺せばいい。好きにしろ」
と、ルドラは言って掴んだ剣の切っ先を自らの喉に誘う。
その場にいる誰もが息を詰め、瞬きもせずに成り行きを見守る中 ―― やがて剣を手にした戦神(いくさがみ)だけが、瘧のように身体を震わせ始める。
「この程度の言葉で躊躇うならば、俺に刃など向けるな、腑抜けが!!」
雷鳴にも似たルドラの怒りに打たれた様に、剣を振り上げた戦神(いくさがみ)はその場に崩れ落ちた。
短い沈黙の後、ルドラは血の滴ったままの剣を足元に座り込んだ戦神に差し出す。
「戦神(いくさがみ)を名のるのであれば、自らの剣を簡単に手離すな。戦神(いくさがみ)が剣を手から離す時は死ぬ時だ。
それとも、もう闘う気はないのか?ならば、今すぐここで死ね。今から向かう戦場に、迷いのある者は必要ない」
床に両手をついて座り込んでいた戦神(いくさがみ)はルドラの言葉を聞いて顔を上げ、血でぬめった剣の柄を震える手で掴んだ。
「・・・ルドラ王、手当てを・・・」
剣を離したルドラの手から滴り落ちた血潮で床が染まるのを見たインドラが、言った。
ルドラは右の眉を跳ねあげてインドラを見る。
「この程度の傷に、手当てなどいらぬ」
「・・・しかし・・・ ―― 」
と、インドラが言いかけたのと同時に、廊下の向こうから先に出陣したミトラの部下がルドラの元に転がる様に駆けてきた。
「報告致します・・・!!ストレージュ河上流にアスラの大軍が現れました・・・!至急援軍を!!」
そこにいた戦神(いくさがみ)達が驚愕の声を上げる前に、反対側の廊下から別の戦神(いくさがみ)が姿を現し、悲鳴に近い声で叫ぶ。
「只今城の上空にアスラ軍が来襲し、メーダの森に大量の火矢を放っております・・・!城内に火の手が入るのも時間の問題かと思われます・・・!!」
「・・・それぞれ、軍を率いているのは!」とインドラが緊迫した声で問う。
「正確な確認は取れておりませんが、あれはヴリトラの三男ではないかとミトラ様が・・・!」
「城上空に現れた軍はヴリトラ神妃軍かと思われます・・・!」
その報告を聞いた戦神(いくさがみ)達は、インドラと短い言葉を交わした後、それぞれの軍を出陣させる為に走り去ってゆく。
「・・・さて、始めてくれたぞ・・・漸く・・・」
ルドラは低く呟いて笑い、左手を伝う自らの血をべろりと舐め上げた。