37 : 想いが向かう先
「おい、ヤマ・・・どうした?」
「ヤマ、大丈夫?どこか具合でも悪いの?」
心配そうなスーリアとアディティーの声に我に帰ったヤマは、いつの間にか自分が地面に座り込んでしまっている事に気が付いた。
「今の・・・、今の、聞いたか、俺は・・・」
と、言いながらディアウスを見下ろしたヤマだったが、ディアウスの両目が何事もなかったかの様に閉じられているのを見て口をつぐむ。
「・・・聞いたかって・・・何を?」
不思議そうにスーリアが尋ねたのに、ヤマは何でもない、と答えて首を振った。
やがて蒼白な顔をしてやって来たプリティヴィーを始めとする天地両神一族の者達にディアウスを託し、ヤマは立ち上がる。
「大丈夫、ヤマ・・・?」
深い意味を込めた声で、アディティーが尋ねる。
「ええ、大丈夫です」
揺るぎない視線でアディティーを見ながら、ヤマは答えた。
「私も直ぐに出陣します」
「気を付けて・・・無事の帰還を祈っています、ヤマ」
黙って深く頭を下げたヤマが、マントを翻して去って行く。
その後ろ姿を見送ってから、アディティーは死んだタールクシアを埋葬する準備をするようにと、側に控えていた侍女達に指示をし始めた。
「・・・パルジャ!」
出陣しようとひしめく戦神達の間を縫うようにして近付いて来たプリティヴィーが自分を呼ぶ声に、パルジャが振り向く。
「・・・ディアウスの様子は・・・?」
「まだ気付かないわ」
囁く様な声で、プリティヴィーは答える。
「パルジャ。以前からお願いしていた例の件だけれど・・・、覚えている?」
「・・・翼竜を一匹貸して欲しいという件か?・・・戦に連れて行けない若い翼竜なら、いつでも自由に使ってくれて構わないが」
「・・・ありがとう」、固い表情のまま、プリティヴィーは礼を言った。
そんなプリティヴィーを見て、パルジャは眉根を寄せる。
「しかしプリティヴィー、一体翼竜を何に使うのだ?」
「・・・言ったでしょう、理由は訊かないで・・・悪いけれど」
今まで聞いた事がないような低い声でプリティヴィーは言い、パルジャはそれ以上の事を訊けなくなる。
「・・・だが今は、君がディアウスに付いているべきだと思うのだが・・・」
「・・・大丈夫よ。そんなに遠くへ行きたいわけではないし、アラーニーや守護神達も付いているから」
と、言ってプリティヴィーは顔を上げる。
「でも、心配してくれてありがとう、パルジャ。・・・気をつけて行って・・・、絶対に帰ってきてね。兄様の為にも」
「・・・分かっている。今死んでたまるか」
噛み付くような激しさでもって、パルジャは答えた。
アーディティア神群の勝利の女神として名高い暁の女神ウシャスを先頭として、戦神(いくさがみ)達が続々と一族を従えて出陣してゆくのを見送ってから、プリティヴィーはそっと神々のざわめきの中心から外れた。
気付かれないようにそっと雨神一族の翼竜がいる小屋に向かい、若く気性の優しそうな翼竜を選んで外に連れ出し、その背に乗る。
「・・・シュラダ山へ向かって」
と、プリティヴィーは言った。
年若い翼竜はその山の名を聞いた瞬間に畏れるように小さく首を揺らす。
「脅えなくて大丈夫よ。一切神に覚えがめでたい私が ―― 天地両神一族の“地神”が付いているのだから。さぁ、急いで」
プリティヴィーは強めに翼竜の首と胴に繋がっているたずなを振る。
翼を数回羽ばたかせた後、翼竜は滑らかな動作で西に向かって飛びあがる。
地神の守護神であるヴァストーシュとクシェートラが突然消えた主の気配を辿ってその場にやって来た時には、翼竜の姿は遥か彼方に小さな影になってしまっていた。
プリティヴィーがディアウスの部屋に ―― 心配する一族の前に姿を現したのは、それから数刻後の事だった。
ディアウスが眠る寝台の側に座り込んでいたアラーニーが激しい動作で立ち上がり、プリティヴィーの前に立つ。
「こんな時に、何処にいらっしゃっていたのですか!ディアウス様がこのようになっていらっしゃる今、あなたがしっかりしなくては・・・」
と、言いかけたアラーニーがそこで、唐突に言葉を切った。
そして恐る恐る、といった動作でプリティヴィーの顔から視線を外してその手を見下ろす。
「・・・プリティヴィー様・・・!!そ、その薬草は・・・!!」
驚愕に満ちたアラーニーの声に、部屋にいた守護神を初めとする天地両神一族の者達も、プリティヴィーが持っているその薬草を見 ―― 一様に顔色をなくす。
プリティヴィーの手にあったのは、薄い緑色の葉に赤い縞模様が入り、所々に紫色の花を咲かせている薬草であった。
天地両神一族の聖地であるシュラダ山の山頂、一切神が若くして亡くなった妻ヴィシュヌを祀った祭壇の周りにしか生えない薬草。
愛する妻を失った悲しみの余り、一時は全てを忘れてしまいたいとまで思いつめたという一切神の深い嘆きを受けて大地から芽を出したというその薬草には、人の記憶を消し去ってしまう効用があるという言い伝えがあった。
「・・・なりません、なりません・・・!その薬草を使うなど・・・!許される事ではありません、プリティヴィー・・・!!」
「誰に向かって、物を言っているの、アラーニー」
低く鋭い声で、プリティヴィーは言った。
アラーニーは・・・呆然として目の前に立つ“地神”を凝視した。
こんな物言いをするプリティヴィーを、彼女は初めて見たのだ。
「私の兄であり、“天神”である兄がマルト神群でどんな屈辱的な思いをされていたか・・・兄様がそんな記憶を止めたまま、生きてゆかれるなどと、考えただけで恐ろしい。
どきなさい、アラーニー。何を言われても、私は引かないわ。兄様がこれ以上苦しむのを、私は見ている事は出来ない」
「・・・っ、しかし・・・!地神よ、それはあまりに・・・!」
「出てゆきなさい!今すぐ!!」
尚も食い下がろうとしたアラーニーを、プリティヴィーの甲高い声が打つ。
「皆も、出てゆきなさい!私がいいと言うまで、この部屋に入ってくる事を禁じます。早く・・・!!」
狂気の色さえ感じられるプリティヴィーの言葉に反論する事が出来ず、誰もが無言のまま部屋を後にした。
全ての者が部屋を出て行ったのを確認してから、プリティヴィーは崩れるように兄の眠る寝台の横に座り込む。
そして震える手で薬草の量を慎重に測り、それをすり潰して神酒(ソーマ)に溶かし込んだ。
出来上がった紫色の液体に手をかざして小さな声で呪文を唱えてから、プリティヴィーは寝台に眠るディアウスの顔を間近で覗き込む。
「兄様、兄様、ディアウス兄様・・・!私が、どんな事をしても守って見せるわ・・・これ以上傷つく事などないように・・・!」
熱く、切なく囁いたプリティヴィーは手にした薄紫色の薬を口に含み、ディアウスの唇に自分のそれを強く押し付けた。