38 : それぞれの正義
アディティーが足早にその部屋に入った時、室内は不思議な芳香に満ちていた。
それは頭の芯を痺れさせるような、奇妙に甘い香りだった。
「プリティヴィー、何と言う事を・・・ ―― !!」
厳しい声で、アディティーは叫んだ。
「向こうで何があったのか、話も聞かず・・・本人の了承さえとらずにこんな・・・、許される事ではないわ!そんな事も、分からないの!?」
「分かりませんわ、無垢の女神」
ゆらりと立ち上がったプリティヴィーが振り返り、言った。
きっぱりとしたその返答を聞いたアディティーは強く目を閉じ、やがて緩慢な動作で首を左右に振る。
「もし ―― もしこんな事をディアウスが知ったら、どんなにショックを受けるか・・・それも、分からないと言うの・・・?」
「まぁ、私を脅していらっしゃるの、アディティー?でもお生憎さま、私はそんな生ぬるい脅しには屈しなくてよ」
「何という・・・!」
無垢の女神付きの女官達がプリティヴィーの余りに不遜な物言いに抗議の声を上げたが、プリティヴィーの表情は動かない。
「告げ口なさりたいのなら、なさればいい・・・ご自由にどうぞ。でも事実を知った兄様にどんなに責められても、ののしられても・・・恨まれても、私はちっとも構わない。マルトの王に穢された、そんな辛い記憶を持って兄様が生きてゆかれる ―― 思い出すたびに傷付く姿を為す術もなく側でただ見ているなんて・・・、私には出来ないから」
きっぱりとプリティヴィーが言い放ち、アディティーは大きく息を吐く。
「・・・あなたがこれで本当にいいと思うのであれば・・・ ―― 私は告げ口などする気はないわ、でも・・・」
と、その時、ディアウスが微かな呻き声を上げた。
弾かれる様に、プリティヴィーが寝台へと向き直る。
プリティヴィーを初めとして、皆が見守る中、ディアウスの瞼が数回震えた後にゆっくりと開かれた。
ぼんやりとした光を湛えた蒼の瞳が、虚空を見つめる。
「天王様、私がお分かりになる?」
消え入りそうな声で尋ねると、ディアウスは緩慢な動きで視線をプリティヴィーに転じた。
水を打った様な沈黙の中、ディアウスが苦々しく笑う。
「・・・妹にまで天王様呼ばわりされるのはごめんだと、一体何度言えば・・・」
「兄様」
「・・・私は一体・・・、あ・・・!」
短く叫んで、ディアウスは上半身を起こした。
「戦場で深手を負ったというパルジャは・・・?」
「・・・兄様が倒れていらっしゃる間に戻って来たわ。でも言われた程酷い傷ではなかったのよ。今はもう前線に戻っているわ」
表情ひとつ変えずに、プリティヴィーは答えた。
「それより兄様、無理をしては駄目だと言ったでしょう?こんなに長い事寝込まれて・・・、心配するこっちの身にもなってちょうだい」
「・・・あの、私・・・、倒れて・・・?」
白い手を額に宛てがい、ディアウスは訊いた。
プリティヴィーは笑って頷き、
「・・・覚えてないの?全く、重症ね」
と答え、ディアウスの身体に手を回して抱き寄せる。
「・・・お帰りなさい・・・兄様・・・」
大袈裟に思えるプリティヴィーのその言葉に苦笑しながら、ディアウスは抱きついて来る妹の身体を抱き締め返した。
プリティヴィーの肩越しに、アディティーと目があったディアウスは、申し訳なさそうに微笑む。
「・・・アディティー、心配をかけたのでしょう、ごめんなさい」
アディティーは一瞬、ディアウスをじっと見てから小さく首を振る。
「・・・いいのよ。気が付いて良かったわ。暫くはきちんと休まなくては駄目よ、ディアウス」
「・・・でも、戦況は・・・?」
「・・・そう、ね・・・。厳しい事は厳しいけれど・・・」
言い淀んだアディティーの言葉の後を、プリティヴィーが引き継ぐ。
「今はね、マルト神群も一応こちら側についているのよ、兄様」
さらりとした口調で、プリティヴィーは言った。
「・・・え?マルト神群が私達に援軍を・・・?」
眉を顰めて、ディアウスは言った。
「そうよ・・・と言うか、マルト神群の城がアスラ神群に攻撃を受けているんですって。
だからアスラ叩く間は私達の間の事は一旦脇に置いておく・・・みたいな感じなのかしら。戦神(いくさがみ)の方々が考える事は分からないわね」
「でも、何時の間にそんな・・・」
思ってもみなかった情勢の激変ぶりに、ディアウスは呆然とする。
その様子を ―― マルトやルドラなどの言葉を聞いた瞬間のディアウスの瞳の色の変化を、プリティヴィーは注意深く観察していた。
しかしディアウスの瞳にそれらの単語に対する反射的な嫌悪以外の色が浮かばないのを確認して、安堵する。
どうやら薬の量が適量だったらしいと胸を撫で下ろしつつ、プリティヴィーは当惑する兄の身体を寝台に横たわらせた。
「さ、兄様はもう休まなくては駄目よ」
「・・・、ルドラ一族が出て来ているとは言え、戦況は良くないのでしょう?怪我をした人は?」
「怪我人は戦場に近いマルト神群の領地内にある城に運ばれるという話だから、ここには運ばれてこないわ。とにかく何をするにせよ、兄様はまず休まなくては駄目」
「じゃあプリティヴィー、そこに至急、人をやって・・・」
「分かってます、兄様がきっとそうおっしゃると思って、力のある者を選んで前線に向かわせるよう、手配しています。だから兄様は、安心して休んで」
プリティヴィーの返答を聞いたディアウスはそこでようやく安心したように息をつき、目を閉じる。
それを見てプリティヴィーは立ち上がり、ディアウスの守護神である双子にその場を任せて静かに部屋を出る。
プリティヴィーと一緒に部屋を出たアディティーは、振り返って頑なな表情を浮かべる地神を見やった。
アディティーの後ろにいた祈祷神ブラフマーナも、責めるような目をしてプリティヴィーを見ていたが、それにもプリティヴィーは動じる素振りを見せない。
「・・・これで本当に良かったと思うの?私にはとても正しい事には思われないわ」
と、アディティーは言った。
「その考えを否定する気はありません。私は、私の正義を貫くだけ」
プリティヴィーはきっぱりと言い切り、2人の守護神とアラーニーを後ろに従えてその場を去った。