月に哭く

39 : 狂った過去と狂わされた未来

 アーディティア神殿を出陣した戦神(いくさがみ)達は当初、順調に軍を進めていた。
 だがその足はマルト神群の領地に入った途端、たちまちのうちに鈍った。

 アスラの伏兵があちこちに身を潜めている上、激しい戦闘によって地形が完全に変わってしまっていたのだ。
 以前マルトの戦神(いくさがみ)としてこの地を隅々まで駆けた死者の王ヤマの記憶を頼りに進軍していたが、彼が知っているのは数千年も前の道筋であり、全てを正確に覚えている訳ではない。
 真新しい戦闘の跡地を通り過ぎる度に気だけは逸ったが、地道に伏兵を排除しつつゆっくりと進軍して行く他、道はなかった。

 アーディティア神殿を発った数日後、後発の軍が追い付いた時には思わず神々から失笑が漏れた位だった。
 しかしそんな中、追いついてきた後発の軍内に天地両神一族の神々が混ざっているのに気付いたパルジャは眉を寄せる。

「・・・天神の御命令で、私共はマルトの青龍殿に向かいます。怪我人の治療をする為に」
 彼等の一人が、集まった戦神(いくさがみ)達に説明する。
 その固い表情からは、成り行き上マルトの神々をも治療しなければならないであろうという事実に、やりきれない想いを抱いているのが見てとれた。

「ディアウスは意識を取り戻したのか?」
「はい」
「・・・様子は・・・?」
 低い声で、パルジャは尋ねる。
 預知者達はそこで一瞬顔を見合わせたが、やがて一人が口を開いた。

「プリティヴィー様が記憶を上手く消されて・・・今のところは特に取り乱していらっしゃるご様子はありません」
「記憶を消した!?」

 パルジャだけでなく、ディアウスの様子を知ろうと集まっていた戦神(いくさがみ)達から驚愕の声が上がり、やがて静まり返る。

「・・・そうか・・・、翼竜を貸してくれと言っていたのは、シュラダ山に行く為だったのか・・・」
 と、パルジャがひとりごち、預知者達は頷いた。
「流石“地神”の神名(しんめい)を冠するお方だけあって、記憶の消され方も見事で。現在ディアウス様は、パルジャ様がお怪我をしてアーディティア神殿に戻った時点までの記憶しか持たれておりません」
「・・・そうか・・・そう出来たのであれば、それが最良だったかもしれないな、確かに・・・。そんな記憶を持ったままでは、ディアウスも辛いだろうし・・・」
 呟くように、パルジャが言った。
「・・・そうかも知れないけど、でもさ・・・ディアウス、それ知ったら、怒るだろうなぁ・・・」
 まるで自分が苦しいかのように顔を歪めて、スーリアが呟く。
「スーリア、絶対に変な事を言ったりやったりするなよ」
 パルジャのその厳しい忠告の声に、スーリアは分かってるよ、と答えて小さく肩を竦める。

 そのやりとりを天幕の片隅で黙って聞いていたヤマがそこで、呆れたような色を滲ませた深い溜息をついた。
 それを聞きつけたパルジャが厳しい顔のまま、ヤマに視線を転じる。

「・・・何だ、ヤマ。お前も、余計な事は一切するなよ」
 そう釘を刺されたヤマは視線を上げてパルジャを見て、唇の端に苦笑いをひらめかせながら首を振る。
「むろん俺は何も言う気はない。そんな滅茶苦茶な話に対して言う言葉など、思いつかない。・・・しかしつくづく、天地両神一族というのは物凄い事を平気でやってのける一族なのだな。驚かされる」

 ひとところに固まって立っていた天地両神一族の神々が、ヤマのその言葉に反応して一様に眉を寄せる。

「・・・それは、どういう意味です、死者の王。あなたの様に一時我らの敵方に付いていた人間には、決して分からないでしょう、私達の気持ちなど」
 吐いて捨てるように言い放った天地両神の神を、ヤマは鋭い視線で見やった。
「そうだな、そうだろうな。だがな、そんな気持ちなど、俺は分かりたくもないし、分からなくていい。お前達がやった事は、ただ預知の能力を持っているというだけでその者を惨殺していたかつてのルドラ一族の思想と何処が違う?俺にはその境目の判断がつかぬ」

 普段口数が少なく、どんな事を言われても常に温厚な態度を貫き通していたヤマのその過激な言葉を聞いた預知者達の表情に、激しい怒気が漲る。

 一触即発的な空気が一瞬にして天幕内に満ち、慌てて暁の女神ウシャスがヤマと預知者達の間に割って入った。

「無垢の女神の御名と ―― そして、この私、暁の女神の名においても、こんな場所で争う事は決して許さない・・・!」

 厳しい口調で叫んだウシャスの肩越しに投げられる預知者達の憎悪に満ちた視線を数十秒間、黙って受け止めていたヤマは、間に入ったウシャスに一礼した後、天幕を後にした。

「・・・ヤマ・・・」

 そっと後を追ってきた火神マニウが、死者の王の後姿に声をかける。

「・・・すまない。こんな時に口にしてはいけない事だった。しかし、・・・」

 天幕から少し離れた場所で空を見上げていたヤマは、視線を空に注いだままそう言い、語尾を濁す。

「・・・お前の言いたい事は、よく分かるよ。しかし天神は我々にとって、無垢の女神に次ぐ至宝とも言える神なんだ。それが穢されたなどと・・・我々とて辛いのだ。ましてや天地両神一族の者達からすれば、耐え難い屈辱だろう。分かってやってくれ、ヤマ」
「・・・穢されたと、それを判断するのは我々ではない・・・」
「 ―― え?何か言ったか?」
「いや」
 遠い空の彼方、龍宮殿がある方角にひたと視線を注ぎながらヤマは言った。

 そしてまざまざと思い出す。

 間近で聞いた、自分だけが聞いた、ディアウスの、天神の預知。

 ディアウスが口にした“あの方”とは、彼が乗せられていた神馬タールクシアの主、ルドラ王その人であろうと、ヤマは確信していた。
 そして縋るような目をして“どうか、伝えて”とささやいた ―― あれは、最後に自分に懇願したのは、神ではなく、ディアウス本人なのではなかったのだろうか?

 そうだとしたら・・・全てが、間違った方向に進んでゆく事に、なりはしないだろうか・・・?

「・・・ヤマ・・・?」

 黙り込んでしまったヤマの横顔に、再びマニウが呼びかける。
 不安に彩られたその声を聞いてヤマは苦笑しつつ、空から視線を離して横に立つ火神を見た。

「いや、何でもない。・・・さぁ、もう出発しなくては。出来れば今日早いうちに預知者達を青龍殿に送り届け、夜か、明日の早朝には我々もルドラ軍に合流出来るように」
「・・・そうだな、それでは皆にその様に言って、支度を急がせて来よう」
 と、言って踵を返すマニウの背中に、頼む。と声をかけ、ヤマは再び空を仰ぎ見た。

 龍宮殿方面の上空に垂れ込める黒い天と、その黒い空間に幾筋もの雷が糸を引いて落ちている様を暫く眺めてから、ヤマはひとつ息をつき、自分の一族が待機している天幕へと足を向けた。