4 : 荒ぶる声
太陽が地平の彼方にその姿を完全に隠し、景色が月の光に冷たく照らされ始めた頃。
慌てた様子の乱れた足音が、神殿の奥へと向かっていった。
足音が途切れ、躊躇いがちに瞑想の間のドアが小さく叩かれる。
音は間隔を置いて、何度も何度も、諦める気配無く空気を揺らす。
やがて祈祷神ブラフマーナが、戸口に顔を出した。
「一体何事なの」
祈りを途中で中断させられたブラフマーナは不機嫌な声で外に控えていたアディティー付きの女官に尋ねた。
「申し訳ございません、只今死者の王と太陽神が戦場より帰還されまして、それで・・・」
「まあ!ヤマとスーリアが帰ったの?みんな無事?怪我人は?」
ブラフマーナよりも数秒遅れて戸口に出てきたアディティーが、女官の言葉を遮って叫ぶ。
「は、はい、両軍全員無事なのですが、あの・・・」
と、女官は言いかけたが、既にアディティーは喜びの声を発したと同時にその場を去って行ってしまった。
肩をすくめ、苦笑を漏らしてからブラフマーナは女官に向き直る。
「貴女方も大変ね。神名(しんめい)のイメージとかけ離れた激しさを持つ女神を主(あるじ)とするのは。同情するわ」
「・・・はぁ・・・。あ、いえ別に、あの、その・・・」
女官のしどろもどろな返答に思わず吹き出しかけたブラフマーナだったが、すぐに面(おもて)を改める。
傷を負っていない戦神(いくさがみ)が戦場から帰ったと言う報告は、無垢の女神と祈祷神の祈りを中断させる理由にはならない筈なのだ。
「それで、何があったの?」
「ヤマ様が、ルドラ王からの密書を持って帰られたのです。共にディアウス様のご様子も聞いて来られたのですが・・・」
深刻かつ沈んだ表情で女官は言い、語尾を濁す。
その瞬間、大地の“気”が酷く乱れた。
それを感じたブラフマーナは眉をひそめ、それ以上女官の話を聞くことなく、小走りにアディティーの後を追った。
「その話を聞いて、何も言わずに帰ってきたって言うの・・・!?」
悲鳴に近い声が、神殿入り口にほど近い大広間から聞こえてきた。
アディティーとブラフマーナが広間に入ってゆくと、そこには鎧を着たままのヤマに掴みかかろうとするプリティヴィー、それを止めるスーリアがいた。
「何があったのです?」
アディティーの声に、3人の周りに集まっていた神々が振り返る。
「プリティヴィー、どうしたって言うの?」
と、ブラフマーナも尋ねたが、プリティヴィーはその声さえ聞こえていないようだった。
プリティヴィーの後ろに控えている地神の守護神クシェートラとヴァストーシュ、天神の守護神であるアパームとナパート、そしてアラーニーも、血走った目でヤマを見詰めて動こうともしない。
「何も言わなかった訳ではない」
ヤマは噛んで含める様にゆっくりと言った。
「しかし先代とは全く違うルドラ王だったのだ。きちんと話が出来て、又、聞ける王だった。確かにディアウスが王の部屋で暮らしていると聞いた時は驚いたが・・・」
唇を震わせて目の前のヤマを睨みつけるプリティヴィーの後ろで、アパームとナパートが唸った。
「他の部屋にいさせるのは危ないから、と言っていた。自分の部屋が一番他人の手が入り込みにくいから、と」
「・・・それを額面通りに信じられると本当に思うの?」
と、プリティヴィーが平坦な声で尋ねる。
「わざわざ王自ら単身で自軍を抜け出してきてつく嘘とは思えない」
天地両神一族の射る様な視線を一身に受けながらも怯む様子もなく、ヤマは答える。
それを聞いて、プリティヴィーは狂ったように笑いだした。
「ずいぶんとルドラ王の肩を持つじゃないの・・・!マルトへの忠誠心が再燃したのかしら?」
「・・・私の今の忠誠心は全て無垢の女神に捧げるものだ ―― 例え過去がどうあれ」
「口先だけでは何とでも言えるわよね。先代のルドラ王に仕えていた一族ならば、その手で何をやって来たか・・・天地両神一族に本心ではどんな感情を抱いているのか、分かったものじゃないわ!」
「私は確かに、先代のルドラ王に仕えていた者だ」
激しいプリティヴィーの、挑発とも取れる言葉に憤る事無く、ヤマは静かに言う。
「だが知らぬ訳ではあるまい?先代のルドラ王のあまりの酷い預知者の虐殺に耐えられなくなった我々がマルト神群を出る際に囚われていた預知者を出来うる限り伴って出奔し、アーディティア神殿にやってきた事を。我々はそなたたちと同様、マルト神群からは怨まれているのだ。例え頭(こうべ)を垂れて戻りたいと願い出た所で、もう決して受け入れられる事はない」
「兄様を差し出すことで、許されたんじゃなくって?大体、私達はあなた方を ―― 」
「プリティヴィー・・・!!」
耐え切れなくなったスーリアが、懇願するように叫ぶ。
「そんな、心にもない事を言うなよ、頼むから・・・!ディアウスの事はみんな心配してる、ヤマだってそうだよ、分かってるだろう!!」
「あなたは黙ってて!」
鋭い視線はヤマに注いだまま、プリティヴィーは叫んだ。
「いいえ、プリティヴィー。それ以上言うのは、この私が許さないわ」
尚もヤマに食って掛かろうとするプリティヴィーの前に、ヤマを庇うようにして立ったアディティーが言った。
「お願いだから落ち着いて。大地の“気”が酷く乱れているわ。それに・・・今味方同士で争っても仕方ないでしょう」
血が滲むほど両手を握り合わせ、プリティヴィーは顔を伏せる。
目で見てとれる程震える肩にアディティーは手を掛けたが、その手を素早く振り払ってプリティヴィーは顔を上げた。
そして居並ぶアーディティアの神々を ―― 微かに自分を責める色に彩られた視線を向ける神々を挑むように見やる。
「あなた方には、私達の気持ちなんて分からないのよ ―― そうよね、虐げられ、無残に殺され、引き裂かれて打ち捨てられたのは私達の大事な一族であって、あなた方の一族じゃないんですもの!!」
「プリティヴィー、そんな事・・・」
「ないとでも言うの?分からないから・・・分からないから、そんな涼しい顔をしていられるのよ!ルドラ一族の王の自室で兄様がどんな思いをしているか・・・本当に心から心配しているなら、そんな話を聞いてそのまま帰ってきたりは絶対にしない筈よ・・・!!」
後から後から湧き上がってくる果ての無い激情に喘いだプリティヴィーの頬を、堪えきれずに溢れた涙が伝う。
その雫を拭うこともせずにプリティヴィーは踵を返し、その場を去った。
主の後を、2組の守護神が追う。
一番最後に、やはり無言で立ち去ろうとしたアラーニーの腕を、アディティーが取る。
「アラーニー、とにかくプリティヴィーを落ち着かせて頂戴。ヤマが大丈夫だと判断したのよ?ヤマの判断力の高さは周知の事実ですもの、だから・・・」
「・・・私もそう楽観的になれればどんなにいいかと思いますが」
と、アラーニーは凍ったような声で言った。
「でも、憶えておいて下さいませ。私達は私達の何よりも尊ぶ存在を敵に奪われているのです。ただ奪われているだけでも辛いというのに、その上 ―― こんな・・・これ以上の屈辱はありません」
きっぱりとそう言い切り、去ってゆくアラーニーの後姿を溜息をついて見送ってから、アディティーはヤマに向き直る。
「・・・まず ―― 無事で何よりだったわ、ヤマ、スーリア。疲れたでしょう?」
「大丈夫ですよ」
言葉を選びながらゆっくりと話す女神に微笑みを向けて、ヤマは言った。
「・・・プリティヴィーの事は、気にするなと言っても無理でしょうけれど・・・、分かってあげて頂戴ね。不安なのは皆一緒だけれど、でも・・・」
「分かっています、あの話をすればああいう展開になるであろう事は、覚悟していましたから。それよりも・・・」
と言って、ヤマは手にしていた紙の束をアディティーに差し出した。
「ルドラ王から渡されました。良く読んでおくと良い、と言っていましたが」
「ルドラ王が自らヤマのところへ来たの?突然?」
広げた書類に目を通しながら、アディティーは尋ねた。
「はい、隣り合わせに布陣していたのですが、何の前触れも無く・・・驚きました。
しかしこの神殿に来た時にはルドラ王らしいというか、いかにもという雰囲気だと思ったのですが・・・あの時とは全く違う雰囲気で」
「随分緊張と・・・無理をしているのが私には伝わって来ていたわ。きっと・・・色々と大変な事があるのでしょう」
そう言ってアディティーは手にした書類をそのままヤマに返した。
「これは戦神(いくさがみ)が読むべき密書だわ。アスラ神群に対する戦術の事ですもの」
「戦術の事?何故そのようなものを・・・」
驚きの声と共に戦神(いくさがみ)達が書類を覗き込んだ。
「もしかしたら、マルト神群を今回のルドラ王が変えるかもしれないわ・・・。きっと ―― きっと、ディアウスも不安でしょうけれど、きちんとした扱いをされているように思うわ・・・」
祈りと希望が微妙に入り混じった声音でアディティーは呟いた。
「パルジャ、これ、お前も見ておけよ。前からアーディティア神群の戦術は根本から考え直さないと、とか言ってたじゃんか」
戦神(いくさがみ)がルドラ王からの密書を見ながら意見を言い合っている場から少し離れて、立ち尽くしたままでいるパルジャに、スーリアが声をかける。
目だけを上げてスーリアを見たパルジャは、
「私はいい。見たくもない・・・」
と呟き、そのまま部屋を出て行った。
慌ててスーリアがその後姿を追おうとするのを、ウシャスが止める。
「今はそっとしておけ。奴の気持ちも、分からぬではない。私とて望みを捨てた訳ではないが・・・ディアウスの今の状況を思うと、やはり・・・心が痛む」
ざわついていた部屋が、暁の女神の言葉を聞いて静まり返る。
その時ふいに、月を覆っていた雲が流れ、雲の切れ間から現れた月が部屋を白々と照らす。
アーディティアの神々はそれぞれの物思いに沈みながらその場に立ち尽くしていた。
冴え冴えと冷たく光る、満月を仰ぎ見ながら。