月に哭く

5 : 同じ月

 ディアウスは居間の窓辺に座ってぼんやりと漆黒の空に浮かぶ白い満月を眺めていた。
 上空はかなり強い風が吹いているらしく、月には時折黒い雲がかかり、その度に辺りは完全な闇に沈む。

 そんな中で座っていると、つい
「同じ月が、アーディティア神殿の上にも輝いているのだろうか」
 という郷愁のような気持ちが、ディアウスの胸に満ちてくる。
 その思考を追ってゆくと、限りなく暗い世界に精神が嵌りこんで行ってしまうのをよく分かっていたディアウスは強く頭を振って両手で膝を抱えた。
 そしてもうすぐ夕食を持ってやって来るだろうシュナの事を考える。

 きっと夕食と一緒に、沢山の薬草も抱えて来るだろう。

 そう思ったディアウスの口の端に、微かに微笑みが漂う。

 シュナは最近、暇さえあればあちこちで薬草とおぼしき草を摘んでは持って来る様になっていた。
 中にはただの雑草も混じっていたが、教える度に確実に薬草の割合が増えていった。
 そろそろ簡単な薬の作り方を教えてもいい頃合いかも知れない。
 シュナが作った薬を飲む事が出来れば、彼女の母親だって嬉しいだろうし・・・

 そこまで考えて、ディアウスは空に浮かぶ満月を見上げた。
 この部屋で初めて満月を見た時からその数を数え続けているディアウスだった。
 今ではその数は、両手の指全てを使っても数え切れない。

 再びディアウスの唇から、押し殺した溜め息が洩れた。

 その時、微かな金属音がして部屋の鍵が外された。
 次いで扉が開かれる音、そして足音が続く。
 天井から下がる幾重もの布をかきわけて顔を出し、シュナの名を口に出しかけ・・・ディアウスは慌てて布影に身を隠した。
 緋色の布の間から見えたのは両手一杯に荷物を抱えたシュナではなく、漆黒のマントを纏ったルドラだったのだ。

 自分の部屋に入っていれば良かった、と今更ながらにディアウスは後悔する。
 この時間にルドラが部屋に帰ってくる事は余りなかったので、油断していた。
 これまでにも何度か居間でルドラと鉢合わせした事はあったけれど、すぐにルドラの方がどこかへ行ってくれていた。
 でもこのような場合はどうすればいいのかさっぱり分からない。
 今出て行くとルドラのすぐ側を通り抜けない限り部屋には入れないし、気付かれていないのであればわざわざ出て行って顔を合わせる必要もない。
 自分が今いる部屋の隅の窓は、周りに一番布が多く下げられている場所なので向こうからは見えないとは思うけれど、でも、もし・・・

 ぐるぐると色々な事を考えている内に煩いくらい心臓の鼓動が早まってくる。
 胸を内側から叩くその音が、ルドラに気付かれてしまうのではないかと真剣に心配してしまう程に。
 ディアウスは可能な限り窓に沿って身体を小さく縮め、息を殺す。

 暫くの間そうして待ってみたが、ルドラは一向にその場を動く気色を見せなかった。
 震える手で恐る恐る布を除けて部屋の中心部を覗いて見ると、ルドラは椅子に腰掛けて何やらやっているようだ。

 そっと布を元通りに戻して、ディアウスは途方に暮れる。
 こんな事なら最初に出て行ってさっと部屋に入ってしまえば良かったと心底思うが、そんなのは後からいくら考えても仕方が無い。
 今からのこのこ出て行くのも変な話だ。
 とにかく一刻も早くルドラが部屋を出て行くように祈るしかなかった。

 ディアウスが部屋の片隅で当て所なく祈り続けていると再び扉の方で話し声と幾度かの金属音がし、今度こそシュナの声がした。

「・・・ルドラ王・・・!失礼致しました。いらっしゃるとは思わなくて」
「・・・ああ、ちょっとな・・・食事か」
「はい、ディアウス様の・・・」
 重いマントが翻る音と共に、ルドラが立ち上がる。
「・・・最近、母親の具合はどうだ?」
「ディアウス様にお薬を頂けるようになってからは本当に身体が楽そうで、ほっとしているんです。本当に、ありがたくて」
「・・・そうか・・・。他の奴らも使うようになればいいんだがな」
 呟くようにルドラは言い、溜息をついてから話題を変える。
「・・・俺は今から出陣する。今回はかなり大きな戦になるだろう ―― 勝敗を決する程の物にはならないと思うが」
「そうですか・・・どうか、お気をつけて」
 普段自分にこんな事をいう事はないのに、と訝しく思いながらシュナは答えた。
「風神ヴァータと、火神マニウがアーディティア神殿から出陣したらしい。風を司る神と火を司る神が共に戦場に立つのは俺も初めて見る。見ものだな、きっと」
「・・・はぁ・・・。ふう、じん・・・ヴァータ・・・さまと・・・か、し・・・ん・・・?」
 きょとんとした声で答えるシュナだったが、部屋の隅でそれを聞いたディアウスは久々に心から突き上げるような歓喜を感じる。

 それでは戦場で行方しれずになったというヴァータは、無事だったのだ。
 マニウと出陣するという事は、命に関わるような大怪我を負った訳でもなかったのだろう。

 良かった。
 本当に、良かった・・・。

 ディアウスは思わず声を上げてしまいそうになり、慌てて口を両手で押さえた。

 不思議そうに自分を見上げるシュナにルドラは笑って見せ、
「いや、こっちの話だ。お前は気にしなくていい」
 と、言った。
 そしてそのまま部屋を出て行ってしまう。

 扉が閉まり、もうルドラが戻らないのを確認してから、ディアウスは布を掻き分けて部屋に出て行った。

「ディアウス様!そちらにいらっしゃったんですか?ずっと?」
「突然ルドラ王が入ってきたので、出るに出られなくて」
「ああ、だからだったんですね」
 うんうんと頷きながら両手を打ち合わせ、シュナは言った。
「・・・え?『だから』って、何が?」
 まだ落ち着かない胸を押さえながら、ディアウスが尋ねる。
「今のですよ。ルドラ様がどうして私に戦のお話なんかなさるのか、不思議だったんです。私には今までそんなお話をしてくださった事、ないんですもの」
「・・・そうなんだ?」
「ええ、だって私はマルト神群の神々の神名(しんめい)だってろくに教えられていないんです。さっきみたいにアーディティア神群の戦神(いくさがみ)の名前を出されてもさっぱり分かりません。威張って言う事じゃないですけど。でもあれをディアウス様に聞かせる為に話していたんだとしたら、理由は分かりますよね」

 くすくすと笑いながらそう言って、シュナは食事の支度を始めた。