44 : 偉大なる力の在り方
後方から追って来るヴリトラ神妃とその息子の軍を引き付けたり引き離したりしつつ軍を進めながら、パルジャは心穏やかではいられなかった。
勿論、こんな風な状況で穏やかな精神でいられるはずもなかったが、これまでの戦場では味わった事のない微妙で複雑な感情がパルジャの内には渦巻いていた。
ルドラの放った斥候がもたらした情報は、軍勢の数から布陣、更にその変革の予測まで、的確過ぎる程的確であった。
しかも英雄神インドラと羅刹王アグニが指摘した通り、小競り合いを繰り返しながらビアース河に向かう途中の夜半すぎ、ヴリトラの4男、末息子率いる軍が奇襲をかけて来たのだ。
最初からその可能性を聞いていたから機転を効かせ、巧くかわす事が出来たが、聞いていなかったらああも素早い対応は出来なかったと思う。
マルトの四天王、ミトラとアガスティアの巧みな軍の誘導ぶりや、物音ひとつさせずに神馬を操るやり方にも舌を巻かざるを得ない。
ディアウスを人質に取られ、同じ戦場で戦っていた時にも感じてはいたが、こうやって肩を並べて戦場に立ってみると、その戦に関する能力の差は歴然としていた。
やがて前方に、薄くなりかけている闇夜を透かしてビアースの流れが現れる。
この美しい光景が今、焔によって消失しようとしているのだ、とパルジャは苦々しく思う。
同時に、この高原に四季折々に咲き乱れる花々や草木をディアウスが何よりも愛していた事、せがまれて翼竜を引き出し、度々彼を連れてきた事も思い出す。
その高原が無残に焼き払われた事実をディアウスが知ったら、どんなにか悲しむだろう ―― 考えるだけで息苦しささえ覚える。
無意識に翼竜の手綱を引いてしまいそうになった瞬間、まるでそれを読んでいる様に、隣で神馬を走らせていたミトラがちらりと後ろを振り返ってから言う。
「神妃が前に出てきている。このまま一気に突っこむぞ!」
それを聞いたパルジャは迷いを振り切るように無言で頷き、強く翼竜の横腹を足で蹴った。
その後の戦況は正に、電光石火の勢いで目まぐるしい変化を見せた。
雨神一族とマルトの四天王率いる軍がビアース河を渡河し、アスラ軍がそれに続こうとした瞬間を捉えて川面を激しい焔が舐め、半瞬程の間を置いて風下に向かって突風が吹き下りる。
泡を喰って火から逃れようと、元来た道筋を引き返そうと乱れたアスラ軍に、横合いから湧き出るように現れた死者の王軍が襲い掛かる。
焔と死者の王軍に挟まれるようになったヴリトラ神妃率いるアスラ軍は、呪詛の叫びと共に火と抱き合う様な状態で川下へと逃げる。
そうして逃げ惑うアスラ軍の眼前、すこし高くなった丘の上に、迫り来る激しい焔を物ともせずにルドラ王が姿を現した。
漆黒のマントが吹き荒れる風を受けて激しく翻り、裏地の血の色で目を焼かれたアスラ軍からは悲鳴のような声が上がったが、彼らを率いるヴリトラ神妃は狂った様に喉を逸らして笑い出す。
不気味なまでに甲高い笑い声が、戦場に響き渡った。
「・・・やはり最後はおぬしか、ルドラ!!」
毒に満ちた吐息を ―― その呼吸は一息で木立を枯らすと言われていた ―― シュウシュウという音と共に空気中に撒き散らしながら、ヴリトラ神妃が叫ぶ。
「久しいな、麗しい神妃殿。再びあいまみえる事が出来て、恐悦至極」
燃え盛る焔から立ち上る灼熱で、一呼吸毎に喉が焼け爛れるようなその場所からヴリトラ軍を見下ろしたルドラは笑う。
壮絶なルドラの笑みに、ヴリトラ神妃は毒々しい笑いで答えたが、その背後にいる3人の息子と部下達は微かに恐れをなした様に半歩ほど後ずさる。
「いつぞやの決着、今度こそ付けようぞ!二度と立ち上がれぬように叩きのめし、お前のその身体、喰らい尽くしてくれるわ!」
「やれるものならやってみろ、化け物め!」
焔を背負うようにしてヴリトラ神妃がルドラに襲い掛かり、腰に差した剣を引き抜いたルドラが、それを受ける。
神妃の細い2本の剣と、ルドラの重い剣が鋭く噛み合ったのが、合図だった。
激しい鬨の声と共にルドラ軍とアスラ軍、双方の戦神(いくさがみ)が激しく入り乱れて合戦となった。
戦と焔から逃れて戻ろうとしたり、崖をよじ登って逃げようとする者は死者の王軍によって行く手を阻まれ、逃れ得る事無く殺されてゆく。
大地は瞬く間に血の色に染まったが、その血もあっと言う間もなく燃え盛る焔によって蒸発する。
戦場には、皮膚や髪、そして流された血が焼け焦げる匂いが色濃く充満し、それはその大地や岩に染み付いて二度と薄れる事はないように思われた ―――― 。
そんな血で血を洗うような戦いを一望出来る小高い丘に置かれた本陣を背にして、英雄神インドラと暁の女神ウシャスは無言で戦場を見下ろしていた。
遠くから見ていると川面を伝う焔は敵味方全てを飲み込んでしまったようにしか見えず、ウシャスはすぐさま自らもあの戦場に駆けつけたい衝動に駆られる。
しかし自分の隣に立つ英雄神がひとかけらも動じていない風情で戦場に視線を注ぎ、時折もたらされる戦死者の報にすら ―― 大体8対2程度の割合でマルト神群の戦神(いくさがみ)の名前が告げられる事が多かったのだが ―― 動じる気配を全く見せなかったので、それに倣って胸に突き上げる不安や焦燥に必死で耐えるのだった。
そう、何故かウシャスには分かっていたのだ。
何の感情も見せずに戦場を見下ろす英雄神が、強風で煽られ狂った様に燃え盛る焔がふとした拍子に途切れる度、その隙間に王の姿を求めているのを。
淡々とした外見とは裏腹な激しい葛藤 ―― それは多分自分が戦場に駆けてゆきたいと願う、そういう衝動と同じ種類のものであるとウシャスは感じた ―― を抱いているのを。
それからもずっと、一言も言葉を発さず、交わさずに戦場を見下ろしていた2人の戦神(いくさがみ)に、ヴリトラの三男をルドラが、末息子を自らも負傷を追いながら羅刹王が、討ち取ったという報がもたらされる。
ヴリトラ神妃率いる12万のアスラ軍はその大半が火神マニウの起こした炎にまかれて死に、残ったアスラ軍の6割強がルドラ率いるルドラ軍と死者の王率いる軍勢に討ち取られた。
死者の王の刃によって左目を潰されたヴリトラの次男はどこをどう潜り抜けたのか、母を守って戦場から逃走したとの事だった。
報告を聞いたウシャスは大きく息を吐き、インドラを見る。
「とりあえず上手くいった、と言ってもいいだろうな?」
インドラは額に落ちかかった髪を指で払いのけながら、
「ヴリトラ神妃と次男の逃走を許したのは痛いが」
と、答える。
幾度か小さく頷きながら、ウシャスは戦場を覆っていた焔が終息しつつある戦場に視線を戻しかけ ―― 再びインドラを見た。
「・・・なぁ、英雄神。ひとつ聞いてもいいだろうか」
インドラは何も答えなかったが、嫌だと言う素振りは見せなかったので、ウシャスは続ける。
「勿論戦神(いくさがみ)というものは死を恐れたりする存在ではあり得ないと思うが・・・戦いが始まったばかりのこの時期に、何故、王自らがあのような最前線に赴かねばならないのだ?
マニウの起こす焔と対峙しなくてはならないあんな場所に ―― 火神自身とて二の足を踏むだろうその場所に一神群を纏める王が赴き、しかもそんな無謀とも言える王の行動を止めるどころか、羅刹王などは喜々として王に付いてゆくというのは・・・」
「・・・そうだな。多分アーディティアの神々には分からぬ心理だとは思う」
長い間を置いてから、インドラは言った。
「我々ルドラ一族、並びにマルト神群は、そなた達の様に神名を冠する神を個人的に崇拝するという事はしないからだ、というのが答えになるだろうな」
「しかしマルト神群は、何よりもルドラ王一個人を尊ぶと言うではないか?」
「・・・かの王が内包する唯一無二の強大な力をあるべき形に変換し、向かわせるべき場所に向かわせる ―― それが我々ルドラ一族の戦神(いくさがみ)の役割だ。だがその役目は、生半可な戦神(いくさがみ)では務まらぬ。王にその役割を指名されるという事は、我が一族では何よりも名誉とされている事なのだ。
そなた達の様に個々がそれぞれの力を持つ訳でない我々は、ルドラ王が持つ力だけを・・・その強大な力だけを尊ぶ。
つまり我らはルドラの名を継ぐ王が内包している力 ―― 我が一族、我が神群を守り得る力に敬意を払い、心服しているのだ。決してルドラ王個人を崇拝している訳ではない。
もっとはっきりと言ってしまえば、ルドラ王自身が誰であれ、その者が“ルドラ王”の持つべき力を持っていればそれでいいのだ」
目を逸らしたまま、インドラは言う。
それは嘘だ、少なくともあなた自身はそう思っていないだろう。とウシャスは思った。
だがそのままを尋ねてもインドラが素直に本心を口にするとは思えなかったので、別の質問をする。
「・・・つまり、ルドラ王は常に前線で自軍に力を分け与え続けられる存在であれば、誰でもいいという事を言っているのか、そなたは?」
無論。とインドラは頷き、ウシャスを見る。
「自軍を勝利に導く力、その力を持つ事がルドラ王の存在意義だ。それ以上でも以下でもない」
躊躇うことなくインドラはそう言い、言い切った瞬間にウシャスから目を逸らし、厳しい表情で戦場を見やった。