月に哭く

45 : 戦場に降る雨

 ルドラが羅刹王アグニを従えて本陣に姿を現したのは、その合戦の勝敗が見えてから数刻後の事だった。
 それとほぼ同時にヴリトラが新たな軍を放ったと言う報が届き ―― それを聞いたアーディティアの戦神(いくさがみ)は一様に顔を歪めたが、ルドラは表情ひとつ変えずに淡々と次の指示を出す。

 その様子を見ていたウシャスは思う ―― 彼は王なのだ、と。
 いや、そんなのは当たり前の話だ。
 当たり前だが、しかし ―― そう思わずにはいられなかった。

 ルドラは戦場から帰還したままの姿でそこにいた。
 身体や服のあちこちに乾いた血や泥をこびりつかせ、焔と対峙した痕跡を髪や肌に色濃く残したまま。

 だが彼は、突然アーディティア神殿にやって来て人質として天神ディアウスを連れ去ったあの時と、全く同じ様に見えた。
 圧倒的な威厳と自信、誇り・・・、それは本人がどんな様子をしていても消える事はないのだ。

 ウシャスはアーディティアの戦神(いくさがみ)の治療をしていた顔見知りの預知者をひっぱって、ルドラの元に歩いて行った。

「おい、ルドラ王。とにかく火傷の治療をして、次の戦まで少し休め」

 ウシャスがそう声をかけるとルドラは振り返ってウシャスを見 ―― 次いでウシャスに連れられている預知者を見 ―― 再びウシャスに視線を戻し、唇の右端を歪めた。

「・・・随分と嫌がっているようだが」

 ルドラのその指摘を受けてウシャスはちらりと横にいる預知者の表情を見て、肩をすくめる。

「まぁ、過去が過去だからな、多少嫌がっている位の事には目をつぶってくれ。
 ほら、早く治療をしないか。これがそなたの仕事だろうが」

 ウシャスの静かながらも有無を言わせぬ命令に逆らえず、その預知者は震える手でルドラに治療を施し始める。
 腕組みをしたウシャスはその場を離れず、治療を施す預知者が新しい薬草を手にする度に細かくその効用を説明させた。
 それはルドラに対する説明の意もあったが、いつの間にかルドラの後ろに立ち、さりげなく剣の柄に手をかけている英雄神インドラを逸らせない意図もあった。

 ルドラの肌に触れる預知者の手指は常に細かく震えていたが、その震えは3人の戦神(いくさがみ)に見張られている状況から派生したものであるか、それともルドラ王への憎しみと恐れのせいであるかは定かではない。  恐らく本人にすら、判断の出来ない事であったろう。

 やがてたどたどしいやり方で治療が終了し、その半ば頃から笑いを堪える風ですらあったルドラが立ち上がり、 「暁の女神、俺よりこの預知者殿こそ、今日は早く休ませてやった方がいいと思うぞ」  と、言った。
 そして唇を噛んでうつ向いている預知者に短い謝辞の言葉を述べる。
 しかし彼女は頑なにうつ向いたまま反応せず ―― ルドラの声音や表情に、預知者への憎しみや恐れが全くない事に気付かなかった。

 ヴリトラはその後も、まるで湯水の如く軍勢を前線に送り込んできた。
 ビアース河での勝利は小さな出来事でしかなかったのだと全ての戦神(いくさがみ)が理解するのに、そう長い時間はかからない。
 先の戦で一旦アスラの軍勢に奪われたマルト神群の城、龍宮殿を取り返したが、その後ヴリトラの激しく情け容赦のない攻撃により、結局ヴリトラ神妃と刃を交えたあの戦から十数日で青龍殿まで後退を余儀なくされてしまった。

 先行きに希望の光が全く見えないその戦いに、アーディティア神群の戦神(いくさがみ)達だけでなく、マルト神群の戦神(いくさがみ)達にすら、徒労の色が見え隠れし始める。

 やがてアーディティア神群の戦神(いくさがみ)の間からは、
「ビアース河であんな派手な戦い方をすべきではなかったのではないか」、
「ルドラは戦術を選択する順番を間違ったのではないか」、
 などという声も聞かれた。

 マルトの戦神(いくさがみ)は勿論、アーディティアの心ある戦神(いくさがみ)もそれが後付けの言い掛かりに過ぎないと ―― あの場面でああいう風にヴリトラ軍を叩かなかったら、戦況はもっと最悪なものになっていただろうから ―― 分かっていた。
 アーディティアの戦神(いくさがみ)の中からはそういった陰口が士気の低下に繋がらないかと危惧する声も上がったが、それに対してルドラは一言、放っておけと言っただけだった。
 一旦囁かれ始めたそういう陰口を完全に封じるのはほぼ不可能に近い事であるのは明白であったし、アーディティアとマルトの確執を思えばそんな声があっても不思議ではないのだ。

 一方、マルト神群の戦神(いくさがみ)達はというと、彼らは誰一人として、そんな声など気にしなかった。
 彼らは戦において、アーディティアの戦神(いくさがみ)に、初めから期待などしていなかったのだ。

「・・・しかし、アスラの悪魔どもの数は無限なのか?殺しても殺しても全く減った様子が見られないじゃないか」

 戦と戦の合間、本陣に戦神(いくさがみ)達が集まった折、呆れたような口調を作ったウシャスが言った。
 そしてアーディティア神殿から届けられた神酒(ソーマ)を少し、口に含む。

「全く減っていないという事はない・・・はずだ、恐らく」
 ウシャスが差し出した杯を受け取ったヤマが微かに笑いながら答え、ちらりと本陣の片隅に固まって座るルドラと英雄神、半分の数になっている四天王を見た。

「死者の王殿が言う通り、減っていないという事はないだろうがな・・・」
 長い沈黙の後に、羅刹王アグニが答える。
「でも、私たちの軍ほど減っていないのは明らかよね」
 アグニの後を継いで、アガスティアが呟いた。

 黙って剣の手入れをしていたルドラが刃を柄に納めて顔を上げた時、本陣を構える洞窟の入り口を覆う布が風がないにも関わらず、微かな音を立てて不吉にはためいた。
 激しく降りしきる雨によって湿気を多く含んだ空気が、本陣に流れ込む。
 その布の動きをちらりと眺めやってからルドラは英雄神インドラを見上げ、
「夜明けまでは?」
 と、尋ねた。
「あと2刻半余り」
 落ち着いた声で、インドラが答える。
「2刻半か・・・、インドラ、斥候に連絡を取って状況の確認を」
「先刻手配済みです。もうすぐ報告が入ると思われますが ―― やはり今夜、動くと思われますか」
「動いて欲しくないとは思うが、いかにも奴らが好みそうな天候だしな・・・。それにヴリトラも、そろそろ決着を付けたいと思っている頃だろう」
 インドラの抜かりない手配に薄い笑みで答えたルドラは肩を竦める。
「ビアース河での合戦で三男と四男の首級を上げたというのに、あれ以降ヴリトラ神妃や息子どもがろくに出てこないのも薄気味悪い。
 今までであれば絶対に怒りに燃えて夜討ちをかけてきたであろうに」
 と、そこまで言ったルドラが、アーディティアの戦神(いくさがみ)に視線を転じる。
「アスラの悪魔どもは陽の光を好まないのだ。絶対という訳ではないが、戦を仕掛けてくるのは夜か ―― 日中でも、雨や曇りの日が多い。だから動くとしたら今のこの状況は、彼らにとって正に・・・」

 ルドラがアーディティアの戦神(いくさがみ)にぶっきらぼうな口調ながらも丁寧に説明しかけたその語尾に、荒々しい足音が重なった。
 インドラとアグニがそれを聞きつけて立ち上がったのと同時に洞窟の入り口にかけられた黒い布が跳ね上げられ、本陣に入ってきたのはインドラが放っていた斥候だった。

 彼は外に降りしきる雨に濡れ、乱れた息をそのままにルドラの元に跪く。

「やはり動いたか」
 無感動な声で、インドラが尋ねる。
「はい。夜半過ぎ、ざっと数えて20万ほどの軍勢がアスラ宮を出ました。ヴリトラ神妃と次男が軍を率いている模様です」
 報告を聞いたアーディティアの戦神(いくさがみ)はこの期に及んで20万という途方もない軍勢が放たれたという報に驚愕して顔を見合わせたが、ルドラは顔色ひとつ変えず、
「なめられたものよ」
 と、呻くように言った。
「何だって・・・?」
 ルドラの言葉に驚いたパルジャが、弾かれたようにルドラを見て、問う。

 対するルドラはしかし、パルジャの問いには答えず、荒々しい動作で立ち上がった。