月に哭く

46 : ただ一人の神

「我らもなめられたものよ」

 ルドラは底に激しい怒りを秘めた声で言い、自分を見上げる両神群の戦神(いくさがみ)を見回した。

「そうは思わぬか?奴は神妃と次男を出すだけで我ら両神群を討ち取れると思っているのだぞ ―― 自らの死が自軍の滅亡に繋がるヴリトラが出てこないのはともかく、長男すら出て来ぬとは・・・!」
 ルドラはそう言って鋭く舌打ちをした。
「おのれ、ヴリトラめ・・・、この屈辱、晴らさずにおくものか!インドラ!」
 怒号のような王の声に、すぐさまその足元に跪いた英雄神インドラを、ルドラは見下ろす。
「アスラ神群がここに着くのは夜明け少し前になるだろう、それまでに動ける全ての戦神(いくさがみ)に戦闘の準備を ―― アーディティアの神々も、同様に願いたい」
 最後、アーディティア神群の戦神(いくさがみ)に向って、ルドラは言った。

 暁の女神をはじめ、アーディティアの戦神(いくさがみ)達は一様に頷き、王の命令の言葉が終るや否や本陣を後にしたインドラの後に続いた。
 一番最後に立ち上がった雨神パルジャは洞窟の入り口部分で振り返り、厳しい顔をして羅刹王アグニと語り合うルドラを見てから本陣を出た。

 そして前を歩いていた死者の王ヤマに言うともなく呟く、「あれは本気なのだろうか」
「あれ、とは?」問われたヤマは反射的に問い返したが、すぐに納得したようにちらりと本陣に視線を流してからパルジャを見る。「“なめている”と言っていた事か」
 降りしきる雨の中、物憂げにパルジャは頷く。
 ヤマは小さく肩をすくめ、
「あれが本当に本気かどうか、それは本人に聞いてみなくては分からないだろうが・・・例え聞いたとしてもあのルドラ王の事だ、簡単に本心を明かすとも思えぬな。
 だがとにかく、ああ言われてはマルト神群はもちろん、我等アーディティア神群の誰も、20万のアスラ軍に怯む素振りを見せられなくなった事は確かだ」
 と、言った。
 パルジャは肯定とも否定ともつかない唸り声を上げただけでそれ以降は一言も語らず、足早に雨神一族が集まる一角へと向かった。

 雨は夜が開けた後、日中一杯降り続いた。
 長く壮絶な ―― そして果ての見えない、文字通り血みどろの戦闘を経て再び夜が訪れたが、ルドラの予測通り明け方前に姿を見せたアスラ軍の攻撃はやむどころか、緩む事すらなかった。

 夜半までに両軍の名だたる戦神(いくさがみ)はその部下の多くを失い、明け方にはマルトの四天王、ミトラ討ち死にの一報が、時を同じくしてパルジャの右腕として長い神代に渡ってアーディティアの神々をまとめていた河神ナディーが、深手を負ったままヴリトラ神妃の手に落ちたという知らせが本陣に伝わった。

 その地方には珍しく空が暁色に染まり、太陽が空に姿を現した明け方、漸くアスラの攻撃がやんだ。
 次々と負傷者が運び込まれる本陣に戻ったルドラは左腕で暁の女神ウシャスを支えるようにしており ―― それを見たアーディティアの神々は息を呑み、負傷者の手当てに奔走していた預知者達からは悲鳴が上がる。

 泡をくった様に周りに群がる人々に状況を説明しようとルドラが口を開く前に、ウシャス自身が多少よろめきつつもルドラの腕から離れ、
「私は大丈夫だ。大事ない」
 と、言った。

 再度その腕を掴み、ふらつくウシャスの身体を支えたルドラは呆れた様に、
「大事あるかないか、それは預知者 ―― いや、薬師(くすし)が判断する事であって、そなたが断を下す事ではないのだろう」
 と、言った。

 ルドラの言葉に、ウシャスは弾かれたように顔を上げる ―― ルドラが口にした言葉は、天地両神一族を率いる神の口癖、そのままだったのだ。
 ルドラはウシャスの視線に気付いているのかいないのか、淡々とウシャスの負傷の詳細 ―― 左肩を毒矢がかすったこと、だが毒を取り除く応急処置はすぐに施したことなど ―― を説明した。

 毒矢を受けてすぐに適切な応急処置が施された為、ウシャスの怪我は深刻な状態にならずに済み、怪我をして本陣に担ぎ込まれた火神マニウや太陽神スーリアも戦場で戦神(いくさがみ)達が伝え聞いたよりはずっと軽い怪我で済んでいた。
 太陽神スーリアなどは怪我を押してその後本陣の片隅で行われた作戦会議に姿を見せた程であった。

「夕刻までに何らかの手を打たねば、状況は悪くなるばかりだ」
 会議が始まってすぐに、羅刹王アグニが言った。
「そんな事、みんな分かってるわ。わざわざ口に出して言う事じゃなくってよ、羅刹」
 と、アガスティアが言う。

 それは酷く刺々しい口調だったが、アグニは何も言わなかった。
 アガスティアが四天王の仲間を全てを失い ―― アスラに寝返ったタパス、そしてそうとは知らずにタパスを追ったヴァルナをヴリトラが未だ生かしているとは思えなかった ―― どうしようもない喪失感に苛まれている事を知っていたのだ。

「しかし・・・、アスラ軍がいくら太陽の光に弱いと言っても、数の差がこう歴然としていては・・・先手を打とうにもどうしようもない」
 風神ヴァータが、小さな声で指摘する。

 重苦しい空気が流れ ―― 周りで怪我人の治療をしている預知者がちらちらと戦神(いくさがみ)たちの様子を伺っていた。
 沈黙が深くなるにつれ、戦神(いくさがみ)だけでなく、周りにいる預知者たちの表情も固くなってゆき ―― やがて一人の預知者が震える手を握り締めて立ち上がる。

「そもそも、ビアースの流れを穢したのがいけなかったのです。我らの行く先に死があるのが、わたくしにははっきりと見える・・・!」

 叫ばれたその言葉に、アーディティアの戦神(いくさがみ)達は表情を凍らせる。
 叫んだのは長い経験を積み、高い預知能力を有するとされる預知者、水の女神アーパスだったのだ。

 アーパスはルドラを突き抉るように指さして、続ける。

「血に飢えたマルトの王ルドラよ、そなたがヴィシュヌ神の愛でた流れを穢した事から破滅が始まったのです・・・!その所為でヴィシュヌ神は我らを見放し・・・ ―― っ!」

 アーパスの預言の恐ろしさに動きを止めていたウシャスが我に返り、彼女を止めようとする一瞬前 ―― マルトの戦神(いくさがみ)がルドラ王に対するその暴言にいきり立とうとした一瞬前 ―― ルドラは手にしていた杯をアーパスに向けて投げ付けた。
 杯は彼女の肩に当たり、中に満たされていた酒がその首から胸にかけてを濡らす。

 ルドラは表情を変えず、盃を投げた以外に、荒々しい態度を見せる訳でもなかった。
 しかしその光景を見ていた誰もが、瞬きさえ出来ないような雰囲気が、そこにはあった。

「 ―― それは預知なのか」
 ルドラは静かに問う。
「もしそれが預知であるならば、今のこの状況でそんな預知を降ろす神など、ろくなものじゃない」
「何・・・、ですって・・・ ―― !?」
「この状況で、そんな風に我等を見放し ―― 見放すだけでは飽き足らず、そのような下らない預知を降ろしてくる神など、くそくらえだ」
「・・・何という事を・・・!お前は神を信じぬのか・・・!」
 別の預知者が忌々しげに叫んだのに、ルドラは壮絶な笑みでもって答える。
「ああ、信じない。信じるものか」
「な・・・ ―― 」
「俺は神など信じぬ」
 きっぱりと言い切られた言葉に対して抗議の声を上げようとした預知者達の言葉を遮り、ルドラは繰り返す。 「誰が何と言おうと、この現実世界を作ってゆくのは我々であり、神などでは決してあり得ない。この世界で生きるのは神ではなく、ましてやアスラの悪魔どもでもなく・・・我々なのだ。勝利するのは我々なのだ」

 一気にルドラは言い、もたれていた壁から背中を離し、自分を見つめる全ての預知者と戦神(いくさがみ)を見回した。

「生き延びるのは我々であり、死ぬべきはあの悪魔どもであり ―― 悪魔が死に絶える、その勝利の日を掴みとるのは神の手でも神の意思によってでもない。それは我々の、この手で掴む勝利であり、我々の意思だ ―― それを許さぬ神など、信じるものか・・・!」

 凛とした意思が漲るルドラの剣幕に誰もが ―― 預知者すら ―― 呑まれたように押し黙っていた。

「俺は神など信じぬ」
 ルドラは再び繰り返す。
「信じるのは自分だけ ―― この身に宿る戦の ―― 勝利の神だけだ・・・!!」
 低く言い放たれたそのルドラの声は本陣の外まで伝わり、王のその言葉を耳にしたマルトの戦神(いくさがみ)達が天幕の外で歓声を上げるのが聞こえてきた。
 その歓声はあっと言う間に大きく、激しいものになってゆく。

 そんな外の興奮とは対極に、天幕内は恐ろしいまでの静けさに包まれていた。
 天幕内にいたマルトの戦神(いくさがみ)たちは無言のまま次々と膝を折り、深く頭(こうべ)を垂れる。

 しかしルドラは自分に対して深い心服と忠誠の意を示す部下達を見ようともせず、虚空に視線を泳がせ ―― 自分が唯一、絶対的に信じている存在を想う。

 それは自分の中にいる訳ではなく、戦や、勝利の神などでもなかった。

 ルドラが信じる神はただ1人。
 ただ1人の神 ―― かの神が生き、愛する世界を守る力、その力が自分にあるようにと、それだけをルドラはひたすらに願っていたのだ。