47 : 信じるもの
ルドラは本陣の外で自分の名が繰り返し叫ばれている事に関して一切反応を示さず、さ迷わせていた視線をアーディティアの神々に固定した。
「だが確かにヴァータ殿が言う通り、我々に残された軍勢は余りに少なく、敵は余りに多い。
このままでは預知者殿に預言されるまでもなく、結末は目に見えている」
まるで自分達とは関係ない事柄について語るようにルドラは言い、その後を沈黙が引き継いだ。
しばらくの間、沈黙が辺りに幾層にも積み重なってゆくのを眺めていたルドラが続ける。
「だが、見方によっては、アスラ軍の数の優位は奴らの弱点でもあるのだ。そこを突き、少ない可能性に賭けるしか道はない」
「・・・弱点?」、それまで黙っていたパルジャが言う。
ルドラは頷く、「昔からそうだが、奴らは数は多いが軍隊としての統制力に欠けている。今回の戦ではそれが更に顕著になっている ―― そこを突いてやる」
そう言ってルドラは卓上に広げられた地図を見た。
「日が沈むまでの間に、この本陣に罠を張る」
「罠を?本陣に?」
「そう。この本陣の横手に広がる森の木々を使ってここに我らが存在しているかのように見せかけ、夕刻になったら派手に篝火を起こし・・・、我々は森の端に姿を隠す。
同時に斥候の幾人かに頼んでアスラの末端の悪魔どもに偽の噂を線流すように指示を出す。我らの軍に昨日の夜、闇に紛れて他国の一族から援軍が送られたと ―― 我がマルト神群にそういう懐刀的な一族がいるという噂が、もうずっと前からアスラ神群内で囁かれているのだ。実際のところ、そんな一族はいないのだが」
「果たして信じるだろうか?」
「分からぬ」
と、ルドラは言う。
「少なくとも神妃や息子はそんな噂には耳を貸さないだろう。重要なのは、そういう可能性の芽を下の奴らの思考に植えつける事なのだ。
おそらく日が沈むのと同時に、奴らは援軍が来ていようがいまいが、今夜中に決着をつけようとここに押し寄せてくるだろう。我々がまだここにいると思ったアスラ軍が攻撃して来て、ここが無人だと気付かれる前に後ろから奴らを叩く」
「しかしルドラ王 ―― 実際に我等の数は圧倒的に少なく、援軍がいるわけでもない。そんな事をしても、いずれ必ずばれる」
と、風神ヴァータが言う。
「それはそうだ」
あっさりとルドラはヴァータの指摘を認めた。
ルドラの意図を測り切れず、眉根を寄せた戦神(いくさがみ)たちを笑いさえ浮かべて見回したルドラは続ける。
「この作戦自体で勝利を収めようとは思っていない。これは飽くまでも時間稼ぎだ」
「時間稼ぎ・・・?」
幾人かの戦神(いくさがみ)が異口同音に言ったのに対し、ルドラは頷く。
「そう。さっきの戦の最後、ヴリトラの次男に矢を射かけたのだが、強い手応えがあった ―― すぐに生死に関わる事はないだろうが、かなりの傷を負わせられたはずだ」
「・・・だから?」
「次男が負傷し、まるで援軍が来たかのような演出をすれば、長男が出て来ますわよ、ルドラ王」
ルドラの足元に跪いていたアガスティアが言い、
「・・・それが狙いですか、我が君」
と、インドラが低い声で問う。
「その通り。それが狙いだ」
と、ルドラは答えた。
ルドラの意図が ―― この期に及んで新たな敵を増やそうとするようなルドラの意図を殆んどの戦神が理解出来ず、奇妙な沈黙が流れた。
「長男が出陣すれば、アスラ宮に残るのはヴリトラ神だけになる」
と、ルドラは低い声で言う。
「アスラ軍を維持し、支えているのはヴリトラの魔力と呪いの力だ。アスラ軍の戦神(いくさがみ)が生半可な傷では死に至らないのはヴリトラの魔力に守られている所為だ。だが裏を返せばあいつを ―― ヴリトラを倒せば全てが終るという事になる」
王の言葉を聞いたマルト神群の戦神(いくさがみ)が、一斉に驚愕の色濃いうめき声をあげて立ち上がった。
そんな自軍の戦神(いくさがみ)の様子に頓着せず、ルドラは続ける。
「戦いの隙を見て俺が手薄になったアスラ宮に忍び込み、ヴリトラを討つ」
「無茶です、ルドラ王・・・!!いくらなんでも、そんな・・・!!」
と、インドラが叫んだ。
「確かに色々な意味で危なすぎる賭けだ。だが他に方法があるか。無為に時を過ごし、陽が沈めば我等は終わりだ。少しでも可能性があるならば、やってみるしかない」
「・・・では誰か・・・、誰かお供を・・・どうか私をお連れ下さい・・・!」
ルドラのマントの端を激しい所作で掴み、インドラは言う。
しかしルドラは冷たくその手を払いのける。
「必要ない」
「・・・王!しかし我々ルドラ一族や味方の戦神(いくさがみ)がいない場所に行き、お力が暴走したら・・・誰がそれを止めるのです!?」
と、羅刹王アグニも言い募る。
「・・・お前ら、この俺が信じられぬのか」
無謀としか思えない王を必死で止めようとする一族をじろりと睨んで、ルドラは言った。
激しい怒りの表情を隠さない王の様子に、戦神(いくさがみ)たちは言葉を失ったが、王の剣幕に半歩ほど退きながらもインドラが口を開く。
「そういう事を申し上げているのではございません、私は万が一の話をしているのです・・・!!ヴリトラがルドラ王、あなたを、そのお力を手に入れようと手薬煉(てぐすね)引いているのはご承知のはず!
お力が暴走し、ヴリトラに取り込まれる様な事になったら・・・“ルドラ王”は永遠にアスラ神軍の戦神(いくさがみ)となり ―― あなたを失った我が一族は、我が神群は崩壊し、後は闇に落ちるしかない!!」
マルト神群の戦神(いくさがみ)たちは息を詰めて2人のやりとりを聞いており、周りのアーディティア神群の戦神(いくさがみ)や預知者は今まで聞いた事のなかったルドラ一族やルドラの力に纏わる話を聞いていた。
「 ―― インドラ」
ふいにルドラは激した声音を改める。
「皆も分かっているように、このルドラの身に宿る力は味方から離れれば離れる程荒ぶる力だ。今はその暴走する間際の強い力が必要な時だと思う ―― 大丈夫だ、何が何でも、最後まで持ち堪えてみせる。信じてくれ。俺も信じる」
「信じる・・・?何を・・・?」
震える唇で、インドラは尋ねる。
しかしルドラはすぐには答えず、ただただその深い緑色の双眸でインドラを見た。
「お前にも ―― 誰にでも、ひとつやふたつ信じるものがあるだろう。信じるもの・・・決して損ないたくないものが。
俺は自分の力と、その存在を信じているのだ。何物にも、決して、一片たりとも、損なわせたりはしない」
ルドラの言葉を聞いたインドラは、激しく身体を震わせて両手で顔を覆い、すすり泣く様な呻き声を上げた。
「・・・けどさ、ルドラ王。アスラ宮は一息吸うだけで死に至るような濃い瘴気に満ちているって聞くけど・・・その点は大丈夫なのか?」
インドラ達から視線を外したルドラと目が合った太陽神スーリアが尋ねる。
スーリアの飾り気や恐れのない物言いに、厳しく引き結ばれていたルドラの口許が微かに緩む。
「ヴリトラ神妃やその息子どもと散々やりあってきて、多少の耐性はついている。最もこの俺も、アスラ宮に足を踏み入れるのは初めてだからな・・・どうなるかはやってみない事には分からぬ。
だがこうなったらそれぞれが出来る事を必死でやるだけだ・・・それ以上の事は ―― そうだな、預知者の方々に託すしかあるまい」
本陣の片隅にひとかたまりになっていた預知者たちは、それを聞いて一斉に顔を上げた。
全員が聞き間違いかと考えたが、ルドラは真剣な視線は見紛うことなく自分たちに注がれている。
訳が分からない、と言った風に顔を見合わせる預知者たちに、ルドラは言う。
「祈っていてくれ」
「・・・何・・・?」
数秒の躊躇いの後、水の女神アーパスが聞いた。
「アスラの悪魔どもが一人でも多く、援軍が来たという偽情報を信じるように、ここに攻撃して来た奴らが少しでも長く我々の罠に騙され続け、混乱し続けるように、そして ―― この俺が上手くアスラ宮に忍び込めるように、この身に宿る力がアスラ宮の魔力に呑まれぬように、そして最後、ヴリトラ神を討ち取れるように」
「・・・我々が・・・?」
「後半は難しいか?しかしな、俺が成功しなかった場合、俺の身体を喰らい尽くしたヴリトラが次に欲するのは、そなたたちが敬愛する2人の神だ」
「・・・え・・・?」
「ヴリトラとその妃は俺の次に天地両神の力と身体を欲するだろう ―― 信じるも信じないも勝手だが、いざその時になってみてから後悔しても遅い」
と、ルドラは断言し ―― 祈る気になったか?と、優しげに見えなくもない表情で預知者たちを見た。