48 : 見えないぬくもり
「インドラ、お前の神馬を貸せ。今いる神馬の中では、お前のが一番早く駆けられるだろう」
微かに緩めた口許を厳しく引き締めたルドラが、言った。
インドラは黙って頭を下げ、側にいた部下に自分の神馬を連れて来るよう指示を出す。
「王、タールクシアはどうなされた?一刻を争うこの時に、タールクシアは一体どこへ・・・?」
と、訝しげに羅刹王アグニが問い、次いで四天王の一人アガスティアも、
「そういえばこの戦で、一度も姿を見ていないわね」
と、言った。
マルト神群の神々のそのやりとりを唇を噛んで聞いていた雨神パルジャが、説明しようと口を開こうとしたのを遮るようにインドラが言う。
「王、神馬の用意が整いました。直ぐに出られますか」
「無論」
ルドラは答え、マントを大きく翻して足早にその場を後にした。
マルト一族の神々が次々とその後を追う中、インドラだけが一瞬、強く鋭い視線でパルジャを睨む。
その視線は不用意な発言をしようとしたパルジャを激しく牽制し、糾弾する視線だった。
「気を付けた方がいい」
マルト神群の戦神(いくさがみ)達が全員本陣を出たのを確認してから、パルジャの横に立った死者の王ヤマがそっと説明する。
「それでなくとも今、マルト神群の戦神(いくさがみ)達は殺気だっているのだ。ちょっとした加減で何がどうなっても、おかしくない」
「・・・どういう意味だ、それ?」
側で聞いていた太陽神スーリアが尋ねる。
「こんな場面で我等がタールクシアを殺めたなどと言ったら、アスラとの戦を待たずに我々は内部崩壊することになるだろう」
と、ヤマは当然の事のように断言した。
そして、今この状況下で・・・?という表情をして自分を見ている面々を見回し、肩をすくめる。
「マルト神群の戦神(いくさがみ)達に一旦火がついたら、それを止めるのは容易じゃない。ルドラ一族の中で、今の状況がどうこう考えられる冷静な戦神(いくさがみ)は、本当に一握りしかいない。その冷静さとて、ただ内にある激しさを必死で抑え込んでいるだけで・・・内面は正に暴風雨神と冠される王を崇めるにふさわしい激しい一族なのだ。
もしも今この時、王の愛馬を我等が殺めたなどという事実をマルトの神々が知ったら ―― 恐らくルドラ王であっても暴走する一族を止められないだろう」
「・・・けど・・・、そんな事言ったらヤマだって元々はルドラ一族の戦神(いくさがみ)だった訳だけど、でもいつも落ち着いてるじゃないか・・・。本当は違うのか・・・?無理してる・・・?」
と、スーリアが尋ねる。
彼の声音に悲し気なものがたゆたうのを察したヤマは、小さく声を上げて笑いながらスーリアの肩を軽く叩いた。
そして言葉にしては何も言わず、そのまま本陣を出て行った。
本陣の前、ルドラ王の元に連れて来られた英雄神インドラの愛馬は、酷く落ち着かない様子だった。
マルト神軍の戦神(いくさがみ)が乗る神馬は、知能が非常に高い。
力の強い戦神(いくさがみ)はその中から更に知能や能力が高い馬を選りすぐって自分のものとしており ―― それ故、インドラの神馬は自分の身に思いがけない重大な任務が課せられようとしているのを察しているようだった。
耳を伏せ、鼻腔を膨らませて興奮する馬は、主であるインドラが声をかけても一向に静まろうとしない。
「・・・私の神馬を引き出して来ましょうか」
ルドラの斜め後ろに立ち、様子を見ていたアガスティアが言った。
「いや、いい」
ルドラは低い声で言い、ゆっくりとインドラの神馬に近付いてゆく。
そしてその首筋に手を置き、その目を覗き込むことなく、囁いた、「怖いか?」
馬はひとついななき、激しく首をうち振った。
ルドラは馬の様子を気にすることなく、視線を地面に落としたまま続ける。
「だがお前も見ている筈だ。俺達はお前達と共に長い年月、あの悪魔と戦ってきて ―― その戦の合間、俺が一度だって戦場において、誤った行動をとった事があるか?ないだろう?信じてくれ、大丈夫 ―― 決して、無茶な事をさせようとしている訳ではない」
小さく、小さくルドラが囁きかけるにつれ、馬は落ち着きを取り戻していった。
それでも暫くルドラは黙って馬のたてがみを撫でていたが、やがて時を見計らうように軽く馬の首筋を叩き、ひらりとその背に跨る。
「インドラ」
「はい」
「アスラ宮近くまで行ったらお前の元に帰らせる。それまで何とか他の神馬でしのいでくれ」
「・・・御意」
「俺がヴリトラを討ち取るまで、なんとしても持ち堪えろ。よいな」
「この身に代えましても ―― 」
と、インドラが言いかけたのを、ルドラは馬鹿者!と怒鳴って遮った。
「俺は皆で生きられる世界を手にするのだと言っただろう ―― 死ぬなと言っているのだ!よいか、生きろ ―― 生きて、新しい世を見るのだ・・・!」
ルドラは怒鳴るように言い、言いざま、馬の脇腹を蹴った。
短くいなないたインドラの神馬が矢が弓から放たれた勢いで空中を駆け上がり ―― その後をマルト神群の戦神(いくさがみ)達が上げる、悲鳴めいた歓声が追い掛ける。
しかし上がった歓声は王の背に追い付くことなく、ルドラの姿は瞬く間に厚く垂れこめた黒い雲の間に紛れ、見えなくなった。
「・・・何か、言った・・・?」
寝台に横たわっていたディアウスが、ふいに囁いた。
眠っているとばかり思っていた兄に突然声をかけられ、驚いたプリティヴィーは顔を上げる。
「・・・いえ、何も ―― まぁ、兄さま、どうなさったの・・・具合が悪いの?」
「大丈夫だけれど ―― 何故?」
「だって・・・」
プリティヴィーは言い、寝台脇に腰を下ろして兄の頬を指先で辿った。
そうされて初めて自分が涙を流している事に気付いたディアウスは、慌てて両手で顔を拭う。
「嫌な預知(ゆめ)でも、見たの・・・?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないのだけれど、ただ・・・ ―― 」
そこまで言ったところでディアウスは言い淀み、空間に視線をさ迷わせるようにして言葉を探した。
しかし適当な言葉は見付からず、溜息をつく。
「無理をしなくていいわ」
と、プリティヴィーは言った。
「無理じゃないんだ・・・でも何か・・・誰かが私に何かを・・・言った・・・?何か・・・触れられたような・・・」
「・・・あまり物事を思いつめて考えてはいけないわ。まだお身体が本調子じゃないせいで、普段気にならないちょっとした空気の流れが気になるのよ、きっと」
プリティヴィーは諭すように言い、優しく兄の額に口付けた。
「そう・・・、かな・・・」
「そうよ。さ、もう少しお休みになって」
「天(そら)が見たい。プリティヴィー、少し窓を開けて・・・」
「駄目よ。大地の気が乱れているから ―― お身体に触るわ」
「・・・、少しだけでいいから・・・」
「駄目。さ、目を閉じて」
きっぱりと言われて、諦めたディアウスは言われた通り、ゆっくりと目を閉じた。
柔らかく髪を撫でる妹の手の感触が、先程の夢で自分に触れた誰かの手のぬくもりの雰囲気と似ているようで、全く異なるものであると感じながら。