6 : 冷たい手と熱い唇
風神ヴァータが無事であった事をディアウスにさり気無く知らせた ―― つもりであったのかどうかは分からないが、とにかくその日以降、ルドラは部屋に帰らなくなった。
戦況がかなり混迷してきているらしいと、不安気にシュナが言った。
戦の事は殆んど教えられないのだと言うシュナがそれを知ったということは、戦況が相当予断を許さない状態になっているのであろうとディアウスは思う。
マルト神群はルドラ王が率いないと本来の力を発さないという話を聞いてはいたが、もう数十日もの間、ルドラは帰らない。
ルドラだけでなく、時折部屋に姿を見せていた英雄神インドラを始めとする戦神(いくさがみ)の姿も全く見られなくなった。
マルト神群の戦神(いくさがみ)とはそういうものなのだ。
戦が続く限り、城に帰還する事はない。
恐らくはアスラ神群の戦神(いくさがみ)もまた、そうなのであろう。
それと引き比べた場合、自分を含めたアーディティアの神々の戦に対する心構えのなんと甘かった事か。
マルトやアスラの、そういう戦神(いくさがみ)達が率いる神群と自分達が互角に戦おうなど、無謀に近い行為であったのだ。
ディアウスは戦慄と共にその事実を知る。
アーディティア神殿で英雄神があからさまに自分達を馬鹿にした態度を取っていたのを、今のディアウスは完全には非難しきれなくなっていた。
ルドラ一族に対する憎悪の気持ちがなくなった訳ではない。
しかしアーディティアとマルトの戦神(いくさがみ)達が共に戦場に立つ事はきっと、大きな意味を持つ事になるだろう。
マルト神群と共に戦う事で、アーディティア神群の戦神(いくさがみ)達は何にも変えがたい貴重な事柄を学びとるに違いない。
そうであるならば、自分がこの龍宮殿を出る事がなくても ―― 二度とあの美しく、黄金色に輝くアーディティア神殿をこの目で見る事がなくとも ―― 悔いはない。
この宮殿に連れて来られたばかりの頃のような虚勢ではなく、ディアウスは静かに覚悟を決めていた。
ここで自分が死んでも、それは決して無駄死ににはならない。
この身はアーディティア神群の未来を切り開く礎(いしずえ)となるのだから、と。
揺るぎないその確信がはっきりと持てた今、恐れるものなどなかった。
そう、ルドラが龍宮殿に帰らなくなってから日を追うにつれ、ディアウスは切実に身の危険を感じるようになっていたのだ。
シュナが部屋にやってくる際に鍵を開けるルドラ一族の神がシュナを押し退ける様にして部屋に入って来ようとしたり、扉の向こうで刀の触れ合うような金属音と怒号が夜中続いたりする事が多くなった。
その度にまんじりともせずにディアウスは夜明けを迎えるのだった。
多分このまま、あと数日ルドラ王の帰還がなければ、自分の命はないだろう。
ディアウスはシュナにも、もう出来るだけここには来ない方がいいと言った。
シュナが巻き添えになる事だけは避けたかったのだ。
そうしてディアウスが命の限りを見据えていたある日。
正午前から部屋の周りを慌しく人が行き来する気配が感じられた。
夕暮れまでそのざわめきが収まらず、そのざわめきの中、大きな音をたてて扉が開かれた。
一瞬これが最後かとディアウスは思ったが、荒々しい足音と共に部屋に入ってきたのはルドラ王だった。
後を追うようにルドラ一族の戦神(いくさがみ)達が部屋に雪崩れ込んでくる。
突然戦神(いくさがみ)達が発するの荒々しい“気”に晒され、驚いて立ち竦むディアウスを、伸ばされたルドラの腕が引き寄せる。
「王、祝勝の宴の最中なのですぞ・・・!王がその席を外されるなど、聞いたこともございません」
どろりと淀んだ液体を流し込んだ沼のような目でディアウスを見てから、サヴィトリーが言う。
「祝勝?ヴリトラが未だアスラ宮から出てきていない今、祝いの席を設ける方がおかしいだろうが。戦はこれからが山なんだぞ」
「・・・それはそうですが、とりあえずの勝利を収めて戦を終えた軍が帰還したのですから、いつもの通り王には祝いの席に出ていただかなくては困ります」
「だから今まで数時間、付き合ってやっただろうが。今は酒よりもこっちが欲しい・・・長い禁欲で気が狂いそうなんだ。一体幾夜、俺がこの肌を夢見続けていたと思う?」
かすれた声でルドラ王は言い、引き寄せたディアウスの肩から首筋を撫で上げ、その白い耳朶に唇を押し当てた。
それを見てサヴィトリーを初めとするルドラ一族の神々は眉根を寄せて顔を歪めたが、驚いたのはディアウスも同様だった。
一体何を言い出すのか、とディアウスは強くルドラの胸を押す。
その瞬間、ルドラ王の身体がこわばり、呼気が僅かに乱れた。
しかしそれを訝しく思う隙もなく、ディアウスは更に強い力でルドラに抱き寄せられる。
酷く冷たい手指が襟足に差し込まれ、強引に顔を上向かせられた。
ディアウスが抗議の言葉を発する間もなく、ルドラは一気に、激しく、その唇を奪った。
手指の冷ややかさとは打って変わった、燃えるような熱い唇で。