50 : 月虹(げっこう)の支え
黒い雲の切れ間から黄土色の旗を掲げた軍勢が進軍してゆくのを見たルドラは、自分の読みが当たった事に安堵めいた気持ちを持つと同時に、一刻も早く自らが背負う使命を果たさなければならないという思いを新たにした。
その軍隊は旗色からヴリトラの長男が率いる軍であるのは明白であったが、思った以上に、それは早い動きだった。
雲の切れ間からちらりと見えただけだった為、正確な数は分からないものの、それでなくとも味方の劣勢は確実なのだ。
これ以上敵の数が増えたら、到底太刀打ち出来ないだろう。
可能な限り神馬を急がせ、ようやくアスラ宮が直ぐ側に見える場所に降り立った時、西の空はこれから流される血の量を予言するかのように濃い紅に染まっていた。
じっとアスラ宮の様子を伺っていたルドラは、その守りがいつもよりは手薄になっているのを確認してから、英雄神インドラの神馬に向き直る。
「後は歩いて行くから、お前はインドラの元に戻れ。分かるな?」
神馬は駆けて来た天(そら)とアスラ宮を見比べてから、ルドラに視線を戻す。
ルドラは笑いながら右手を上げ、神馬のたてがみを撫でた。
「主人に似て心配性だな。大丈夫、あの程度の守りならなんなく突破出来る。早くインドラの元に帰ってやれ」
ルドラはそう言うのと同時に神馬の首筋を軽く叩いた。
神馬は一瞬躊躇った後に馬首を巡らせ、思い切る様に低くいなないてから天(そら)に向かって駆け上がってゆく。
その姿が雲間に隠れて見えなくなる前に、ルドラは素早く踵を返してアスラ宮へと足を向けた。
アスラ神群を統べるヴリトラはその妖術で大量の軍勢を編成していたが、当然の事ながらアスラ宮の守りを蔑ろにしている訳ではなかった。
ある程度の覚悟はしていたものの、宮殿周囲の守りは予想以上に堅く、ルドラは歯噛みしたい気分になる。
敵の数が手薄な場所を慎重に選び、一人ずつ排除してゆく作業は困難を極めた。
戦神(いくさがみ)と言えるほど力のない見張りとはいえ、悲鳴を上げさせたり激しく抵抗されたりして、周りの見張りに気付かれては元も子もない。
見張りは全てルドラの敵になるような存在ではなかったが、それを一人ずつ、声ひとつあげさせず、静かに息の根を止めて行くのは決して簡単な事ではなかった。
貴重な時間がアスラ宮に潜入する前に、まるで指の間から水が零れてゆくように少なくなってゆく事実に、ルドラは気持ちが逸ってゆくのを抑える事が出来ない。
こんな雑魚に構っている暇はないのだ。
宮殿の奥にいるヴリトラを倒す前に、無駄に神経がすり減らされている気がして、ルドラは神経が苛立ってゆくのを感じていた。
しかしルドラは先走ろうとする自分の気持ちを、必死な思いで押さえ込む。
落ち着け、落ち着けと何度も強く、自分自身に言い聞かせる。
焦ってひとつでも失敗したら、そこで全てが終わってしまう。何もかもがヴリトラの思うようになってしまう。
一族も、世界も ―― 大事にしている全てのものが、ヴリトラとその悪魔どもに喰らい尽くされてしまう。
焦る気持ちを抑えるために、自分の指先の小さな動きまでを確かめるようなやり方で丁寧に敵を排除していったルドラがようやくアスラ宮の入り口に辿りついた頃、紅く染まっていた空は暗くなりかかっていた。
ぬめぬめと光る緑色の蔦に覆われたアスラ宮の入り口を守る見張りを全て片付けたルドラは、暗くなりかけた空を横目で見ながらアスラ宮に入ってゆく。
この宮殿近くには何度も偵察に来ていたが、内部にまで足を踏み入れるのは今回が初めてだった。
宮殿に入った瞬間、ルドラはその空間を満たす瘴気の濃さに愕然とせずにはいられない。
そこに漂っている瘴気は、想像以上に濃かった。
この瘴気のなか、果たして自分はどれ程の力を発揮し続ける事が出来るのだろう・・・?
焦る気持ちに不安な思いが滲んでくるのをどうしようも出来ないまま、ルドラは羽織っていたマントを引き裂いて手早く口元を覆い、辺りの気配を伺いながらヴリトラがいるという宮殿の奥を目指す。
外にいた時以上に慎重に歩みを進めて行ったが、アスラ宮に入った途端に人による守りが極端に薄くなった。
何か罠があるのかと足元や壁面を確かめつつ奥へと向かっていたが、罠どころか人影も殆どなく、拍子抜けするような気さえする。
だがやがてルドラは、この宮殿に人による警戒は不必要であるのだ、という事実に気付かされる。
そう、宮殿の奥へ進むほどその濃度を増す毒に満ちた瘴気、それこそがこの宮殿をどんな戦神(いくさがみ)に守らせるよりも強固に、完璧に、守っているのだ。
歩みを進めれば進めるほど、足と身体が重くなる気がした。
いや、それは“気がした”というような問題ではなく、その通りなのだろうと、ルドラは思う。
自分の周りを取り囲む瘴気が、確実に身体を蝕み始めているのが分かった。
頭の芯が微かに痺れ、呼吸が浅く早くなり、ただ歩いているだけだというのに、額にうっすらと汗が滲んでくる。
なんという事だ ―― ルドラは自分の身体を襲う逃れようのない変化に、絶望的な思いを抱く。
どの位ヴリトラに近付いたのかは定かではないが、ヴリトラの元に辿りつく前にこんな風になってしまっては、戦うどころではなくなってしまうのではないか。
他の戦神(いくさがみ)達が言ったように、無謀すぎる作戦だったのかとも思ったが ―― 他に一体どういう方法があったと言うのだ、とも思う。
自分に宿る大いなる力の全てを出し切ったとしても、あの凄まじい数の軍勢の全てを地に這わせる事など不可能だっただろう。
しかしこうやって、こんな場所で何も出来ないまま力を使ってしまうのであれば、最後の最後まで一族と共にいて、この力を使い切るべきだったのかもしれない・・・ ――――
今更とも言える後悔の念に苛まれたルドラの手が、無意識に胸元に宛がわれた。
震える手が服の上から押さえたもの、その存在を思い出した瞬間に、ルドラは今にも傾ぎそうになった気持ちが奮い立つのを感じた。
手に触れたもの、それはシュナが死に際“ディアウス様に”とルドラに託した月虹(げっこう)石だった。
取り出して見なくとも、ルドラはその石が美しく不思議な色彩を放ちつつ輝く様を瞼の裏に見る事が出来た。
昔、初めて知り合った預知者が持っていた石。
幼い頃彼女の隠れ家を訪れる度に、見せてくれとねだった。
しつこい位にそう頼んでいたと思うのだが、彼女はルドラが請う度、嫌な顔ひとつせずに胸元に下げていたこの小さな袋から石を取り出して見せてくれたものだ。
その石が天地両神一族にとって限りなく重大な意味を持つものであり、又自分に大小様々な物事を教えてくれた預知者が実は高い神名(しんめい)を持つ神であったと知ったのはその後かなりの時が経過してからだった。
遠く懐かしい、悲しい思い出の中にいる彼女とシュナに託された月虹(げっこう)石を布越しに強く握り締めながら、ルドラは前のめりになりかかっていた身体を引き起こし、再び歩き出す。
時折行く手を遮る見張りを倒しながら、どれ程歩いたであろうか ―― 今まで歩いて来た狭い通路が唐突に途切れ、ルドラは自分が奇妙な作りの大きな広間に出た事を知った。
辺りの様子を確かめようと首を巡らしかけた時、おどろおどろしい声がその瘴気に満ちた空間を揺るがせる。
「よくここまで辿り着いたものだ・・・その点は誉めてやらねばなるまいな、ルドラよ・・・」
ルドラは口元に笑いの影を閃かせ、顔を上げた。