月に哭く

51 : 死者の声

「やはりあの情報は偽りであったか・・・そうであろうと思ったのだ・・・」
 と、ヴリトラは笑いを含んだ声で言った。
「分かっていたのならば、何ゆえ進軍を止めなかった?」
 鋭い視線を辺りに走らせながら、ルドラは尋ねる。

 しかしどんなに注意深く気配を探ってみても、ヴリトラがどこから自分を見て、話しているのかは分からなかった。
 広間に充満している濃い灰色がかった霧によって視界は悪く、物音や声は複雑な作りの壁に反響し、その方向すら掴めない。

「そなたがここに来るのを、待っていたのだ・・・」
 さも楽しそうに、ヴリトラは笑う。
「死んだそなたの身体を喰らうのも悪くはないだろうが、我が真に欲しているのはその身体に宿る強大な“気”なのだ・・・それは死んだ身体からは決して得られぬもの ―― そして同じ事が天神にも言える」
「・・・何だと・・・?」
「あの神の“気”は弱々しいが、非常に面白い力に満ちている ―― 知っているであろう?愛した者の事ゆえ」

 ルドラは答えなかったが、ヴリトラは構わず続ける。
「安心するがよい。そなたの力を得た後、直ぐにあの神はこのヴリトラのものとなり ―― そなたたちは再びひとつになれる・・・我の中でな」
「随分と俺の力を過小評価しているようだが、そう簡単に貴様の思い通りにはさせない」
 ディアウスの名を出されただけで暴走しそうになる内なる力を気力で抑え、ルドラは言った。
「さあ、隠れていないで姿を見せろ、ヴリトラ!貴様の言うように簡単に物事が進むかどうか ―― 自ら出てきて、確かめてみるがいい・・・!」
「焦るでない、焦るでないぞ、暴風雨神よ。まずは手始めと行こうじゃないか・・・?」
「何を世迷言を・・・ ―― 」
 と、言いかけたルドラの目の前に突如現れた人影が、うなりを立ててルドラの頭上に剣を振り下ろした。

 既に鞘走らせていた剣を引き抜いてその刃を受け止めながら、ルドラは一瞬にして自分の前に現れたのがヴリトラではない事を見て取っていた。
 アスラ神群の戦神(いくさがみ)特有の土気色の肌に強く縮れた髪の持ち主ではあったが、ヴリトラではない。

 幾度か切り結んだ末、ルドラは自分に差し向けられたその戦神(いくさがみ)が自分の敵になるような戦神(いくさがみ)ではないと判断した。

 太刀筋は悪くないが、読み易い。
 何故この程度の戦神(いくさがみ)をヴリトラが出して来るのかと、ルドラは思う。
 辺りに漂う瘴気に当てられて多少手足の動きが覚束ず、頭の芯が痺れるような感覚が抜けないとはいえ、この程度の戦神(いくさがみ)は“ルドラ王”の敵にはなり得ない。
 それをヴリトラは十分分かっている筈だった。

 訝しく感じながらもルドラは隙を見て、対するアスラの戦神(いくさがみ)の喉笛を真一文字に切り裂いた。
 空間に弧を描くように紅い鮮血が飛び散り ―― 戦神(いくさがみ)は断末魔の悲鳴を上げつつ、もんどりうって床に倒れ込み ―― その時敵が上げた声を耳にしたルドラは、信じがたい、信じたくない予感を感じて愕然と立ち竦む。

 恐ろしい予感と共に床にうつ伏せた戦神(いくさがみ)の傍らに膝を付き、身体を仰向けさせようと手を伸ばしかけた、瞬間 ―― その身体から濃い紫色の陽炎が立ち昇り、かかった陽炎がが晴れた、そこに倒れていたのは・・・ ――――

「 ―― ヴァルナ・・・!!」

 震える声で名を呼び、やはり震える手で彼女の身体を抱き起こす。

 そう、それは紛れもなく、裏切った四天王タパスの後を追ったまま行方不明になっていたヴァルナだった。
 事切れたヴァルナの身体はじっとりと重く、露わになった肌のあちこちに、紛れもない拷問と陵辱の後が見て取れた。

「・・・何故・・・ ―― っ・・・!」

 噛み切るほどに強く唇を噛みながら、ルドラは呻く。
 思わず零れ落ちた言葉は、ヴリトラに対するものでも、ヴァルナに対するものでもなく ―― 自分を責める言葉だった。

 何故気付かなかったのだ ―― 幻術で姿形を変えられていたとはいえ、太刀筋を少し気をつけて観察すれば分からない事などあり得ない。
 充満する毒に感覚や思考を鈍らされていたとはいえ、そんなのは言い訳にもならない。
 幼少時代、共に剣を学んだヴァルナの太刀筋が読みやすいのは当たり前だった。

“ルドラ王”は一族を守り、力を分け与えるためだけに生を受ける。

 ルドラは小さな時分からずっと、そう言われ続けていた。
 そう言い聞かせられる度、“この身に宿る力だけが一族にとって必要だと言うのであるならば、純粋な俺自身は無価値なのか”と面白くなく感じたものだった。

 今でも、そういう考えが完全に払拭された訳ではない。
 一族と言葉を交わす中で未だにそう思わされ、虚しく感じる事もある。
 けれど今では昔のように、その思いだけをただただ突き詰めて考えたり、卑屈に思い悩む事はなくなっていた。
 自らが持つ強大な力を一族に浸透させ、気性の荒い戦神(いくさがみ)達をこの力をもって取りまとめる ―― 今ではそれこそが自分の生きがいであると感じてもいたのだ。

 むろん、そう考えなければやっていけなかったという面もあった。
 だがそれだけでなく、ルドラは欠点を含めて自分の一族を大切に思うようになっていた。
 荒れ狂う一族の戦神(いくさがみ)達の事を仕様もないと思い、実際に文句を言う事もあった。
 だが彼らを自分が守らなければと、自分が心を配って彼らを取りまとめて行かなければならないと、強く決意していたのも又事実であったのだ ―― それなのに。

 それなのに自分は、裏切った仲間を救おうと囚われの身になった存在を救う事すら出来ず ―― それどころか、自らの手と剣で、その命を奪ってしまったのだ。

 何の為の王なのだ。
 何の為の力なのだ。
 何の為の戦なのだ。

 ルドラは自分の精神を支えていたものが音もなく、しかし止めようもなく崩れてゆくのを成す術もなく、ただ茫然と感じていた。

 これまで、自分は揺ぎ無く強くあらねばならないと考え、揺らぎそうになる自身を必死の思いで奮い立たせ続けていたが ―― 一族の為にも、そして“強く揺ぎ無い精神力を、守るべき存在のために自分で育みなさい”と預言した彼女の最期の願いを聞く為にも ―― けれどもう、これ以上どういう努力をすればいいのか、ルドラには分からなかった。

 自分は強くなどない。
 どんなに努力をしても、これ以上に強くなどなれない。
 犯してしまったこの重大な過ちは、到底乗り越えられるものとは思えなかった。

「ヴァルナ・・・!」

 再び激しく彼女の名を呼んでその亡骸に顔を伏せたルドラは、ふいに自分を呼ぶ死んだ筈のヴァルナの声に鼓膜を激しく打たれた気がして、顔を上げた。

 その刹那、剣が空を切る音が耳を打つ。
 ルドラは反射的にヴァルナが落とした剣に手をかけ、自分の肩辺りに振り下ろされた刃を間一髪のところで撥ね返した。

「・・・やはり油断のならぬ奴だ、ルドラ・・・!!」
 撥ね返しざま剣を返して切り込んだルドラの刃から飛び退って逃れたヴリトラが、深紅の双眸を怒りに燃やしながら言う。
「悲しみにくれているような振りをして ―― 全て見せ掛けか。面白い・・・!」
「どうとでも言え、この腐りきった悪魔め・・・!貴様だけは、何があっても許さない・・・!」

 剣を構えなおしてヴリトラに対峙したルドラは、怒りに震える声で言った。