月に哭く

52 : 蘇る預言

 アスラ宮に入り込んでからどれ程の時間が過ぎたのか、ルドラにはもう分からなくなっていた。

 あれから何日も経っている様な気もしたし、つい今しがた、ヴリトラとあいまみえたばかりである様な気もした。
 早く決着を付けなくては身体がもたないだろうと、焦る気持ちは常にあった。が、その気持ちと身体の間の隔たりは、時と共に増してゆくばかりだった。

 ヴリトラと刃を交え、彼の纏う濃い瘴気に晒される度に周りに漂う毒は濃度を深め ―― ヴリトラは余裕の表情と態度でルドラを弄ぶ様子すら見せた。
 笑いながら斬りかかり、少し休ませてやるとうそぶいて姿を消すヴリトラは、明らかに痛めつけられて弱ってゆく自分を見て楽しんでいるのだと、ルドラは思う。
 だがそれに対して怒りや憤りを覚える余裕はなく、時折自分を襲う刃の嵐をギリギリのところで撥ね退けるだけで精一杯だった。

「なかなか頑張ることよ」
 鋭く打ち込まれたルドラの刃を軽くあしらって、立ち込める霧の向こうに姿を隠したヴリトラの呟きが、ルドラの耳に届いた。
「だが、もう限界であろう?」

 ルドラは答えない。ひと呼吸毎、空気中に漂う毒に満ちた霧が全身を冒してゆくのだ ―― 無駄な会話をしたくはなかった。
 しかしヴリトラはそんなルドラの思考を読むかのように、
「そうか、もう話をする余裕もないか・・・さぞかし苦しいだろうな、ルドラ・・・可哀想に・・・可哀想に」
 と、言って忍び笑った。
「うるさい・・・まだこれからだ」
 荒くなる呼吸を必死で抑えながら、ルドラは呟く。
「ほう、まだそんなへらず口をたたけるのか・・・では、こうしたらどうかな・・・?」
 言いざま、ヴリトラの鋭い一閃が、思いがけない方向からルドラ目掛けて振り下ろされる。

 声が聞こえて来ていた方向とは真逆からのその攻撃に、ルドラの防御が数瞬遅れた。
 金属の擦れ合う音がして、その直後、ルドラの右肩に熱く焼けた棒を叩きつけられたような痛みが走る。

「・・・、・・・ ―― っ!」
 右肩を切り落とそうとするヴリトラの剣を跳ね上げるようにして、ルドラは反射的に身を引いた。
「悲鳴も上げないのは天晴れだが ―― これでお前の負けだ、ルドラよ」
 左手で鮮血が滴る右肩を押さえたルドラを、細めた深紅の両目で見ながらヴリトラが言う。
「この剣に塗りこめてある毒は、すぐにお前の身体の自由を奪うだろう・・・これでお前は、我がものとなるのだ」
「・・・ではそうなる前に、お前を倒さなくてはならないという事だな、ヴリトラ・・・!」
 ルドラは叫び、ヴリトラ目掛けて鋭く斬りかかった。
 だがルドラの渾身の力を込めた攻撃にもヴリトラは動じる気配をみせず、右手に持った剣一本でルドラの太刀を受け止める。
 そして空いている左手でルドラの右肩、血の滴っている傷口を強く掴む。
 切り込んだ剣に込める力に変化はなかったが、強く掴まれた右肩に生じる焼け付くような痛みに歪められたルドラの表情をさも楽しそうに見やったヴリトラは、毒に満ちた吐息をわざとらしくルドラに吐きかける。

「お前のその表情を見たかったのだ ―― さぁ、お遊びの時間は終りだ、ルドラ」
「・・・ぐ・・・っ・・・!」
 掴まれた傷口を紅く塗られた長い爪で抉られ、ルドラは堪らずに剣を引く。
 2、3歩間を取るように後退して剣を構えなおす素振りを見せたルドラだったが、足は持ち主の意志に反してもつれ、がくりとその両膝が地面につかれる。

 遠くから、笑い声が聞こえた。
 ヴリトラの声であると、ルドラは薄れ行く意識の中で思ったが ―― もう立ち上がる事さえ出来ない。

 手にした剣で辛うじて身体をささえ、なんとか顔を上げる。
 だがその視界さえ、瞬く間にぼんやりと霞んでゆく。

 暗い城内が更に闇とそこに漂う霧の濃度を増すように思えた。
 剣を持つ手が震えだし、それを掴む力が急速に衰えて行くのが分かった。
 だがルドラは必死で剣を持つ手指に力を込める。

 戦神(いくさがみ)が戦場で剣を手放す時は、死ぬ時だ。

 ルドラは常々自分の統治する神群の戦神(いくさがみ)にそう言い、また、自分でもそれを信じてきた。
 しかし今は生死よりも何よりも、剣を手放す事はヴリトラに敗北を認めることであった。
 それだけは、なんとしても避けたいと思う。

 負ける事が不可避だったとしても、自分からそれを認めるなど、あってはならない。
 最後の際、殺され、喰らい尽くされる瞬間まで、敗北を認めたりしてはならない。
 それはマルト神群の王として、絶対に譲れない最後の砦だった。

 霞む視界に目を凝らし、ルドラは数歩先に立つヴリトラを見据える。
 暗くどろりとした闇の向こうに、ヴリトラの血塗られた深紅の双眸が不気味に光るのがぼんやりと見えた ―― その、瞬間。
 ルドラは雷に打たれたような衝撃を感じて、思わず声を上げそうになる。

 上がりかけた声を飲み込んだルドラの脳裏に、伝え聞いたある言葉が ―― ある預言が ―― まるでその時を待っていたかのように鮮やかに浮かび上がる。

 闇を支配する呪われた二つの焔を同時に消しなさい。
 それと引き換えに現れる更に強い呪いに満ちた焔、それを消す事が出来た時、全てが無に帰す ――――

 同時に思い出したのは、“その瞬間になると、まるで岩の割れ目に水が染み入る様に全てが腑に落ちる”と言った死者の王ヤマの言葉だった。

 そうだな、全くその通りだ。とルドラは思い ―― 縋るように剣を掴んでいた手から、力を抜く。
 剣が均衡を失って倒れ、鈍く重い音が辺りの空気を震わせた。

 高らかな笑い声を上げてルドラの元にやってきたヴリトラは、笑いながらその手に持っていた剣をルドラの脇腹目掛けて突き込む。
 細いその刃をじりじりとルドラの身体に沈めてゆきながら、ヴリトラがルドラの耳もとで、まるで睦言のように囁く、「そなたは永遠に我のものだ ―― ルドラ、愛しいルドラよ・・・ ―― 」

 囁かれたルドラは、緩慢だが確固たる意思の滲むやり方で、ヴリトラの首と肩の間にかけた手に力を込め、顔を上げた。
 その表情は苦悶と諦めの色に彩られている ―― 筈だった。
 少なくとも、ヴリトラはそう信じていた、しかし・・・ ――――

「かかったな、ヴリトラ・・・!!」

 ルドラは低く叫び、微笑む。
 その言葉にヴリトラが疑問を投げ掛けるより早く、ルドラの右手が自らの懐に差しこまれる。
 目にもとまらぬ ―― どこにそんな力を残していたのかという素早さで、ルドラは懐に隠し持っていた短剣を引き抜き、引き抜いたそのままの勢いでヴリトラの両目を繋ぐ一本の線を、一気に切り裂く。

 悲鳴の形に開かれたヴリトラの口から、激しい呪詛の叫びが迸る。と同時にヴリトラの額がにちゃりという音と共に縦に裂け、潰した両目より更に激しく血に飢えたような、紅い色をした瞳が空気に晒される。

 逃げようとするヴリトラの身体をしがみつかんばかりに押さえ込んだルドラは、全体重をかけるようにして、割れた額から覗くヴリトラの“第3の眼”に短剣を突き刺した。