月に哭く

7 : 逡巡

 初めての口付けは、血の味がした。

 熱いルドラの唇はやがて、ディアウスの唇を離れ、細い顎を通って首筋に這い降りてゆく。
 もがくディアウスを締め上げるように両腕で抱き潰し、その肌に唇を押し当てたまま、ルドラは居並ぶ神々を視線だけで見やった。

「邪魔だ、出て行け。それともそのまま最後まで見物していく気か?まぁ、それならそれで俺は構わないがな、たまにはそういう刺激があるのもいい」

 かすれた声でルドラが言い、ディアウスは驚きのあまり恐怖や不安、疑問を感じる余裕もない。
 口の中に広がる血の味と肌に触れるルドラの手指の冷たさだけが、やけに鮮明だった。

「明後日行われる戦死者の鎮魂の席にも出られないお積りか」
 羅刹王アグニが隠し切れない怒りを込めた声で言った。
「この身体を存分に味わってからなら出るがな。・・・出席して欲しいのならば、明後日までこの部屋には近付くな」

 王のその命令を聞いたマルトの四天王の一人、タパスがディアウス目掛けて襲い掛かろうとするのを、英雄神インドラがゆっくりとした動作で止める。

「・・・この様に神々の意を悉(ことごと)く蔑ろになさるのは、得策とは思えませぬ。あなた様はそもそも、王位に付かれた当初から・・・」
「その話ならもう聞き飽きた、サヴィトリー。明後日からは再び戦に明け暮れる日々を送るんだ。この状況下で俺の戦意を削ぐ事こそ得策とは思えないが?」

 深い溜息をついて、サヴィトリーは口をつぐんだ。

「・・・去れ」

 気まずい沈黙を気にする素振りも見せずにルドラが命令し、神々はそれぞれ、首を横に振ったりディアウスを見て舌打ちを漏らしたりしながら部屋を後にした。
 咎めるような視線を投げかけながらサヴィトリーが部屋を出て行き、最後にインドラが無感動な目でルドラを振り返って見てから、扉を閉めた。
 扉が閉まるのと同時に、ルドラはディアウスを腕にしたまま低い呪文の声と共に扉に結界を張る。

「これは一体、どういう・・・」
 ディアウスが疑問を口にしようとした瞬間、ぐらりとルドラの身体が傾いだ。
 覆い被さってくるルドラから、ディアウスは逃げるように身を引く。

 低い音を立てて、ルドラが壁に手と肩をついた。
 支えを失ってよろけるようになった身体を壁で支えたルドラの唇から、低い呻き声が漏れる。

「 ―― ルドラ王、もしかしてどこか・・・」
 怪我を、と聞きかけたディアウスだったが、ルドラの鋭すぎる視線に射抜かれて口ごもる。

「・・・・・・て、いろ・・・」
囁くような声で、ルドラが言った。
「・・・えっ?」
よく聞き取れなかったディアウスが聞き返す。
「部屋に・・・、入っていろ・・・」
「でも、ルドラ王」
「いいから、行け・・・!」
 ディアウスが躊躇いがちに差し出した手から身体を反らすようにしながら、ルドラは言った。
「でも・・・、怪我をしているのなら、人を・・・」
 と、言って身を転じようとしたディアウスの肩をルドラが掴んで壁に押し付け、同時に反対の手で腰に下げられた長剣を抜く。

 沢山の血を吸っているのであろう、ぬめぬめと黒く光る剣の切っ先がディアウスの喉元に突きつけられる。
 巻き起こった風で断ち切られた数本の髪が、はらりと空中に舞った。

「何度も同じ事を言わせるな・・・俺を怒らせるんじゃない。部屋に入って、いいと言うまで出て来るな」

 数秒後、壁に押さえつけていた手の力が抜かれ、刀が降ろされる。
 ディアウスは恐怖に震える足で部屋に入り、同じく震える手で鍵をかける。
 それでも恐れは消えず、扉から一番遠い部屋の隅に身を寄せて座った。

 だが震えが収まり恐怖の影が去ると、やはり気になるのはルドラの態度と行動の不自然さだった。

 引き寄せられ、抱き締められた身体から漂ってきた血の匂いは、戦帰りだからかと一瞬思ったが、それにしては生々しすぎた気がした。
 それにあのおぼつかない足取りと、冷たい手指。

 考えれば考えるほど、気になって仕方なくなってくる。

 ルドラ王がどうなろうと、自分が気にかける事ではない、という気もする。
 もしルドラ王が死ねば、自分の命もそれまでだろう ―― ルドラ王が自室にディアウスを置いておくと言ったのは、多分自分を守るためなのであろう。
 理由や意図は分からないが、そうとしか考えられないとディアウスは思っていた。

 今回のルドラ王が預知者狩りをしているのか、又はする気があるのか、それは分からない。
 彼の自分に対する態度を総じて考えると、先代の様な酷い真似はしない様な気もする。

 しかし、だからと言って彼が天地両神一族の、何よりも憎むべき一族を率いる王であるという事実は消えないのだ。
 偉大な預知者であった曽祖父がルドラ一族に殺された話が出ると必ず、今は亡き父母が涙に掻き暮れていたのを思い出す。
 ルドラ王が死んでいくのをただ見ている事は積極的な復讐にはならないかもしれないけれど、少しは ―― ほんの少しは、殺されていった預知者達の慰めにはなるかも知れない。

 そうだ、勝手に死ねばいい。ルドラ王など。
 降りてきた預知を全うしようとしていた預知者達を捕らえて無残に磔(はりつけ)にし、その身体を生きたまま野犬に食べさせ ―― 様子を詳細に書き送ってきた事さえあるというルドラ一族の王など・・・。

 そう思いながら、ディアウスは膝の上に置いた手をじっと見下ろす。

 この手を、復讐をする為の手にして良いのだろうか?
 暗い、血と苦しみに彩られた預知を見る度に、この手と自分が天から授かった傷や病を癒す力だけは人を生かすために使おうと心に決めていた筈ではなかったか?
 相手が誰であろうと、例え罪人(つみびと)であろうと、自分だけは癒しの手を差し伸べようとずっと考えていたのではなかったか?

 それがルドラ一族の王であっても・・・?

 ディアウスは幾度も自問する。

 考えても考えても、答えは杳として定まらなかった。