8 : 謎の渦巻く城
長い事悩んだ末、ディアウスは意を決して立ち上がり、扉に手をかけた。
恐る恐る薄く扉を開け、外の様子を窺う。
居間はしんと静まり返り、物音ひとつしない。
開いた扉の隙間から顔を出してみたが、ルドラ王の姿は見えず、暖炉から立ち上る煙によって部屋はうっすらと白く霞みがかかったようになっていた。
しばらくそのまま様子を伺ってから、ディアウスは思い切って居間に出てみる。
開けられる全ての窓を開けて部屋に充満する煙を外に出しながら、天井から下がる緋色の布影をひとつひとつ探したが、ルドラの姿はどこにも見えない。
治療を受けに外に出たのだろうか、とも思ったが、部屋にやって来ていた神々を追い払ったのを見るとそれはない線である様にも思う。
考え込みながらふと暖炉でくすぶる焔を見たディアウスは、それに気付いた。
足早に近付いてみると、暖炉で燃えているのはおびただしい鮮血で染まった布であった。
血濡れた布を大量に投げ込まれ、焔は今にも消えそうになっている。
暖炉に投げ込まれているのは殆んどが黒い布であったが、それでも布が大量に血を吸っているのが分かった。
ディアウスは慌てて、ぐるりと部屋を見回す。
ルドラの姿は居間にはなく、おそらく外には出ていない。
とすれば、後は奥の寝室にいるとしか考えられない。
剣を突きつけられて部屋から出るなと脅された事も忘れ、ディアウスは突進する勢いで奥の部屋に向かった。
鍵がかかっているかも知れないと思ったが、扉は何の抵抗もなく手前に開いた。
ルドラの自室を一目見た瞬間、ディアウスは思わず呆然として立ちすくんだ。
シュナが自分の用を足すのと一緒に、ルドラの寝室であるこの部屋を掃除していたのは知っていた。
けれど勿論入った事などなかったし、覗いて見ようと思った事もない。
だが今、初めて扉を開けてみて、ディアウスは驚かずにはいられなかった。
部屋は ―― その部屋は、緑で溢れかえっていたのだ。
奥へと続く床の両脇は石ではなく土が敷き詰められており、ずらりと緑が植えられていた。
円柱や壁にも美しい蔦が這っていて、微かに水音が聞こえる。
どこかから水を引いているのだろう。
そしてここにも居間と同様に高い天井から緋色の布が下げられており、布の紅と濃い植物の緑の対比が目に痛い程に鮮やかだった。
呆気に取られて辺りを見回していたディアウスであったが、はたと自分が何をしにここへ来たのかを思い出し、気を取り直して奥へと歩を進める。
部屋は細長い造りになっていた。
やがて突き当たった円形の広間には机と椅子があり、机の上には無造作に本が積み上げられている。
机の向こうに見える扉に近づいたディアウスは音を立てないように扉を開き、中を覗き込んだ。
薄暗い部屋の中央には大きな寝台が置いてあり、ルドラはそこに、ぐったりと横向きに寝ていた。
暗がりで見てもその顔は白く、唇は青い。
そっと近づいてゆき、ルドラが身体に纏っているマントをめくってみたディアウスは眉をひそめ、
「これは一体、なに・・・?」
と、呟いた。
ルドラの肌は、おびただしい数の傷痕で埋め尽されていたのだ ―― 薄く痕が残るものから、肉がえぐられ、引き攣れたようになったものまで、様々な傷痕で。
正に治る暇がないといったその傷痕はどれも、的確な治療を施されてはいない。
ディアウスにはそれが分かった。
そしてその傷痕だらけの肌の上に、真新しい、見るも無惨な傷があった。
右胸の上部を深く突き刺されたようなその傷口は焼けただれた様になっている。
止血をするため自分で自分の肌を焼いたのであろう。
唇を噛み、背中を覗き込んで見たディアウスは呻いた。
背中には胸の傷と同じ位置に同じ傷痕があったのだ。
呑気に驚いている場合ではなかった。
ディアウスは自分の部屋にとって返し、シュナが持って来た薬草の中から目的のものを選び出す。
そして部屋にある限りの銀製の容器を手当たり次第にかき集め、ルドラの寝室に戻った。
灯りを灯してから、寝室に微かに響く水音の元を探して新鮮な水で水盤を満たし、神酒(ソーマ)を作る。
それをいくつかの容器に分け、そのうちのひとつを少しずつルドラの口に含ませてゆく。
次に身体を ―― 傷口を特に丁寧に神酒(ソーマ)で拭き清め、手早く作った薬草をその傷口に塗った。
かなり多めに作った薬が、あっと言う間になくなってしまう。
背中から胸に貫通している傷は間一髪で臓器を傷つけなかったようだった。
しかしこの怪我を負いながら、その事実を隠し通して戦を戦い抜いて城まで戻り ―― しかもその後、宴にまで参加しなければならない理由が分からない。
何故一つの神群を率いる王がこれ程まで孤立したような状態でいなければならないのか。
ディアウスは考え込まずにはいられなかった。
マルト神群は、アーディティア神群のように戦神(いくさがみ)個々がそれぞれ独自の力を持っているのではなく、ルドラ王一個人が全ての力を内包している。
凄まじい力を持つルドラ王を、回りにいる特定の属性を持たない戦神(いくさがみ)が暴走しないようにサポートするのだ。
そういう構成で成り立っているマルト神群は ―― ルドラ一族は、ルドラの名を継ぐ王だけを崇拝し、他の神を崇める事はないという。
そう聞いていたし、幼い頃から様々な文献を読み漁って来ていたディアウスはそれらを総括し、自分なりに判断を下していた。
だからこそ、様々な神に敬意を払うアーディティア神群の気質に、ルドラ一族は合わなかったのだ、と。
そしてその理由により、ルドラ王は自分ではない、どこか他の神が降ろす預知に従う天地両神一族を惨たらしい方法で徹底的に排除しようと考えたのだろう、と。
しかし、これまでに見聞きし、考えてきたのとは正反対の事が目の前で起こっている。
せわしなく手を動かし、薬や神酒(ソーマ)を作り足しながら、ディアウスは思い悩む。
どう考えてみても、このマルト神群にはおかしな点が ―― ディアウスにとっては到底納得し得ない物事が多すぎるのだった。