月に哭く

10 : 救い

「何故、逃げるのですか」、とディアウスは言った。

 左の眉だけを微かに歪め、自分の左腕にしがみ付くようにしているディアウスを見下ろすルドラは、何も答えようとしない。
 ディアウスは真っ直ぐにルドラを見上げ、続ける。

「あなたは、私を知っていますね」

 直線的に、更に言えばどこか挑戦的に投げ掛けられた視線を無表情に受けとめていたルドラが、暫く後、ふっと笑った。
 思いもしなかったその反応に、見上げるディアウスの毅然とした表情が微かに歪んだ。
「残念ながらそういう脅しは、このルドラには効かぬ」
 と、ルドラが言う。
「・・・脅し・・・?」
 と、ディアウスが言う。
「脅しというより、挑発に近いか」
 ずばりと指摘されたディアウスはルドラの腕にかけていた手を引き、さっと目を伏せる。
 その様子を見てルドラは、やはりな。とでも言うように、喉を反らすようにして笑い出した。

 彼の笑い声を聞きながら、ディアウスは唇を噛む。
 確かに一か八かと、かまをかけてみたのは本当だった。

 こういう汚いとも言える手は滅多に使わないが、預知能力がすこぶる高いと噂のディアウスが確信を持った言い方で断言すると、知る限りの真実を全て話してしまう者は多かった。
 ディアウスが誰の目にも明らかな部分だけしか口にしていないにも関わらず、相手はディアウスに全てを見切られていると勝手に勘違いするのだった。
 天地両神一族を間近で見ているアーディティア神群の神々ですら ―― 位の高い神々には流石に通用しなかったが ―― そうなのだ、預知者の能力を恐れ、忌み嫌うルドラ神群の神ならば効果は必ずあるだろうと思っていたのだ。
 それなのに・・・ ――――

「・・・どうして・・・」
 と、ディアウスは呟く。
「どうして分かったのか ―― と言う意味か」
 と、ルドラが訊き返す。
 ディアウスが頷くのを見て、ルドラは一瞬視線を宙に泳がせてから口を開く。
「昔、聞いたのだ・・・ある預知者に」
「預知者に・・・?」
 そう、とルドラは頷く。
「彼女は言っていた。預知者というものは、見た預知がただの幻や夢であるようにと祈り、影で泣く事しか出来ない存在であるのだと。
 そしてその時、俺は目の前で彼女にそなた達が言う所の、神とやらが降りるのを見たのだ」
 ディアウスは息を呑むようにして、瞬きもせずにルドラを見上げていた。
 ルドラはどこか悪戯っぽいような光を目に宿し、
「だから、分かる。そなたに今、神は降りなかった」
 と、言った。
「そ、それは・・・一体、いつの・・・、本当の、話なのですか・・・?」
「こんな話、俄かに信じられないのも道理だな。今となれば俺でさえ、あれが夢だったのか真実だったのか、分からなくなっているのだ」
「分からなくなって・・・?」
「ああ。夢だった気もする。しかし ―― 夢にしてはあれは・・・、あまりにも生々しすぎた」
「・・・この方のお言葉ですか」
 と言って、ディアウスは自分の胸を右手でそっと押さえた。
 そこにはルドラがディアウスに託した月虹石が隠されており、ルドラはちらりとディアウスの手元を見てから、再び笑う。
「その通り。流石、勘が鋭い」
「・・・確かに、私は先程、嘘をついておりました。私は何も見えてはいなかった」
 と、ディアウスは言った。
 そして内心、いつも見えてなどいないのですが。と付け加えながら、続ける。
「それにしても不思議です。神から降ろされる預知と、見るだけで相手の思考の全てが見通せる力を混同なさる方が多いので・・・あなたは、“見たのか”などともおっしゃらなかった。それはこの石を持っていらした方と交流していたから・・・なのでしょうか」
「さぁ、どうだろう」
「・・・教えてください、ルドラ王」
「そう言われても、分からないのだから仕方ない。
 そもそも交流があったと言っても、そう深いものではなかったのだ。時々会って、話をしたりするだけで ―― 彼女も俺に“力”を見せたりする事はなかったしな。
 預知者だけあって薬草を山ほど持っていて、作る薬はとても良く効いたし、そなたと同様、驚くほど勘が鋭いと感じる事はあったが」
「その勘の鋭さを、“気味悪い力だ”とも思わなかったのですか?」
 まるで掴みかからんばかりの勢いで尋ねるディアウスから視線を外し、少し考えるように唇を噛んでから、ルドラは首を捻る。
「確かに怖い位だな。とは感じたが、気味悪いとは思わなかったな・・・。
 ところでそなた、仲間から気味悪いなどと言われている訳か?」
「・・・そうしょっちゅうではありませんけれど・・・時々・・・」
 と、ディアウスは俯き、対するルドラは、
「ふん、まぁ、分かるような気はするな」
 と、興味なさそうな声で言った。
 それを聞いたディアウスは、弾かれたようにルドラを見上げる。
「そなたはアーディティアを代表する神なのだから、もう少し堂々と、誇り高く振舞えないのか?そんな風に自信なさげな素振りをしているから相手はそれを察し、その様な失礼極まりない事を平気で口にするのだろう」
「・・・でも私は・・・、自分が持つこの能力に自信など欠片も持てないのです。どうしても・・・」
「それを言うなら、俺とて自分が持つ“力”に完全な自信や誇りなど持ってはいない」、とルドラは言った。
「・・・えっ?」、とディアウスは聞き返した。

 最初に会った時から感じていた事だったが、どうもルドラが口にする言葉のひとつひとつに驚かされてばかりいる気がするディアウスだった。
 それだけでなく、ルドラの様子が自分たちと同様である事にさえ、ディアウスは内心、酷く驚いていた。

 むろん、そんな事は当たり前だ。
 マルト神群を率いる王である彼が、アーディティア神群に属する自分たちと同様の存在であるのは当たり前なのだ。
 しかし幼い頃から、毎日のようにルドラ王に纏わる血にまみれた逸話を聞かされていたディアウスの中で、ルドラ王という人物は悪魔に魂を売り渡したというヴリトラよりも禍々しく、恐ろしい存在になっていたのだ。
 だが実際のルドラは冷たさすら感じさせる厳しい目をしていたが、物腰は穏やかであり、更には思慮深さまで感じられ ―― これまで聞いていた話から想像していた“ルドラ王”と、今目の前にいる“ルドラ”という人物が、ディアウスの中で全く重なり合わない。
 大体、瀕死の重傷を負いながらあのヴリトラを討ち果たした彼が、自分の力に自信を持っていない、ときっぱりと言い切るのも良く分からない。
 ルドラは飽くまでも真剣な口調で断言していたし、そこに口先だけというような軽さは全く感じられなかった。  ふてぶてしいまでに尊大で、揺らぎの全くない王なのだろうと思っていたのに、とディアウスは心の中で何度も首を傾げていた。

「属する神群がどこかに関わらず、神々の全てが、持っている力に揺ぎ無い自信を抱いていると思うか?」
 驚くディアウスを尻目に、ルドラは尋ねる。
「・・・ええと・・・、私は預知を夢に見る事が多いのですが、時々こうしている時に突然“それ”が始まる時があるのです。預知夢も嫌なものですが、唐突に降りてくる預知は特に怖いのです。私自身は預知が降りている間の事は何も覚えていませんし・・・、知らぬ間に自分の身体を勝手に使われているようで。
―― でも私の妹である地神は、その感覚が好きだと言います。自分が神に選ばれた特別な人間なのだと思うのが、快感でさえあると・・・」
 ディアウスが一言一言考えながら答えると、ルドラは肩を竦め、
「ああ、あの女神と自分とを引き比べ続けて成長したら、そうなるのも道理かもな」
 と、苦笑した。
「確かにあの女神は自信に満ち溢れている・・・というか、満ち溢れすぎて直視出来ない位だが、ああいう神は珍しい類だと思うぞ」
「・・・そうでしょうか」
「そうだと思うがね。少なくともこの俺は昔、自信がある振りをするのに四苦八苦していた」
「・・・では、今は?」
 ディアウスの笑いを誘う事を目的としているようなルドラの話し方によって、徐々に気分が晴れやかになってゆくのを感じながら、ディアウスは聞く。
 そんなディアウスを細めた目で見下ろしたルドラが、
「今では演技が板につきすぎて、自信のない自分をどこかに置いてきてしまった。そこまで到達出来れば、多少は楽になる。全てが上手く行く訳ではないが・・・。
 大体、そなたの作る神酒(ソーマ)の効用が高いのは有名だそうじゃないか。それだけだって凄い事ではないのか。アーディティア神群の中でも口に出来るものは限られているのだと、地神は俺を治療している間、何度も言っていたし、それに・・・ ―――― 」
 と、ルドラはそこではっとしたように、唐突に言葉を切る。
「 ―― それに?」
 と、ディアウスは話の続きを促す。
 促されても尚、悩むように小さく柳眉を寄せていたルドラだったが、やがて口元に漂わせていた笑みを回収してから続ける。
「・・・、それに、そなたが知らない所で、そなたに助けられた存在がいるかもしれないではないか。もっと自信を持っても良いと思うが」
 私に?と驚いて訊き返したディアウスに、ルドラは黙って頷いてみせる。
 ディアウスは力なく首を横に振り、
「・・・そんな事は、有り得ないと思いますが」
 と、言った。
「有り得ない?どうしてそう言い切れる?」
「・・・他の人の為になるような預知を見たり、公言したりした覚えはありませんし」
 と、悲しげに目を伏せるディアウスを見下ろしたルドラは、
「何をとぼけた事を言っているのだ」
 と、盛大な溜息と共に言った。
「え?で、でも、実際・・・」
「先程そなたは、“唐突に預知が降りた間の事は何も覚えていない”のだと言ったではないか」
 ディアウスが反論しようとしたのを遮って、ルドラは言った。
「・・・それは・・・」
「と、いう事は、意識がない間にそなたが口にした預知によって救われ、影で感謝している者が、いないとも限らないだろう」
「そんな ―― そんな事が・・・、ある・・・でしょうか・・・」
 長い空白の後、ディアウスが茫とした声で呟く。
「絶対にないとは言い切れまい。特にそなたには」
 そっけない声で、ルドラは言った。

 今まで考えてみた事もない可能性を指摘され、半分自失したような状態でルドラを見上げていたディアウスの美しい青の双眸がやがて、じわじわと潤み出す。
 そしてそれはあっという間もなく幾筋もの透明な線となって、頬を伝い落ちてゆく。

 その光景を目にしたルドラは、うんざりと呆れた風にぐしゃりと顔を顰める。
「泣くのはやめてくれないか」
 と、ルドラは言った。

 彼の声は酷く冷たかったので、ディアウスはどうにかして早く泣き止もうと試みる。
 しかし努力すればするほど、涙は止まるどころか増えてゆくような気さえした。
 嗚咽を飲み込もうと息を止めるようにし、止まらない嗚咽に息苦しくなって更に激しく咳き込むように嗚咽し、慌ててそれを抑えようとして押さえられずにしゃくりあげ ―― と正に悪循環のような様相を呈してきて、ディアウスは何をどうすればいいのか分からなくなる。

 混乱しつつもディアウスは手を伸ばし、ルドラが纏っているマントの端を掴む。
 中々泣きやむ事が出来ないでいる自分に呆れ果てたルドラが、自分を後に残して立ち去ってしまうのではないかと考え、怖くなったのだ。
 どうしてそんな恐れを感じるのか、ディアウスには分からなかった。
 ルドラに対する恐怖を拭い去る事は出来ていなかったのだから ―― しかし ―― 何故かそれ以上に、彼が目の前から去ってゆく事の方が怖かった。
 話したい事が、話さなければならない事がたくさんある気がした。

 ディアウスはその後も長い時間、泣き続けた。
 しゃくりあげながら泣きやめない事を詫びるディアウスに対し、ルドラは言葉こそかけなかったものの、マントを掴む手を強引に振り払う事はしなかった。