月に哭く

9 : 記憶の雷(いかずち)

 目覚めた瞬間、ディアウスは自分がどこにいるのか分からなかった。
 見慣れない天井、部屋の景色・・・そして自分を取り巻く空気。

 視線だけを動かして辺りの様子を伺っていたディアウスがそっと身体を起こすと、
「おはよう、ディアウス」
 と、寝台のすぐ脇に座っていたアディティーが言い、微笑んだ。
「気分はどう?」
「・・・ここは・・・?」
「私の神殿よ。昨日、自分でここへ来たんじゃないの?」
「ああ、そうか・・・そういえば・・・」
 ぼんやりと答えるディアウスを見て軽く溜息をつき、アディティーは立ち上がって窓を覆っていた布を引き上げる。部屋中に、さっと朝の淡い光が差し込む。
「みんな心配したのよ。あまり無茶をしてはいけないわ」
 諭すように言われたディアウスは、小さく唇を噛んで自分の身体にかけられていた夜具を見下ろし、でも・・・。と低い声で呟く。
「・・・何があったのだとしても、私の意見を一切聞かず勝手に記憶を消すなんて ―― アディティーも、知っていた?」
「ええ・・・、知っていたわ」、とアディティーは頷く、「でもね、ディアウス。あれがいい事だったか悪い事だったかは別として、プリティヴィーも貴方の為と思ってしたのよ。あなたを苦しめたくないと、そう思って・・・」
「分かっている・・・頭では」、とディアウスは微かに声の調子を強めて言った、「でも、心が・・・ついて行かない。信じていたのに・・・」
 そこまで言ったディアウスの声が、激しく乱れた。
 夜具を掴む手指が震え、そこに微かな音を立てて涙が落ちかかる。
 アディティーはそっと寝台に近寄り、無言でディアウスの身体を抱き寄せた。
 それから暫く微かに肩を震わせて泣いていたディアウスだったが、やがて涙を拭いながら身体を起こす。
「・・・ごめん、取り乱したりして。
 ところでアディティー、悪いけどこれから少しの間、私をここに置いてくれないかな。気持ちの整理をしてからじゃないと、プリティヴィーや・・・一族の他の人にも、会いたくないから」
「迷惑だなんてとんでもない。いたければ、好きなだけいればいいわ。でもねディアウス、ひとつだけ、約束してもらいたい事があるのよ」
「約束?どんな?」
「昨日みたいなことは、もう絶対にしないと約束して」
 と、アディティーは言った。

 昨日みたいなこと?とディアウスは不思議そうに訊き返しながら虚空に視線を泳がせ ―― はっとしたように指先で唇を押さえ、アディティーを見る。

「そうだ、私、昨日・・・、ルドラ王はどこに?」
 ディアウスのその、なんとも頼りない反応に溜息を噛み殺し、アディティーは説明する。
「昨日、ここへあなたを連れてきたのはルドラ王なのよ。あんな風な様子がもし天地両神一族に知られたら、どうなると思うの?」
 厳しいアディティーの言葉に、ディアウスは申し訳なさそうに俯いた。
 アディティーは口調を柔らかくして、続ける。
「あなたがルドラ王に会いたければ、会うのは構わないのよ」
「・・・本当に?」
 と、ディアウスは尋ねた。
「あなたが会いたいと言うものを、私が止めたり出来る筈がないでしょう」
 と、アディティーは答えた。
「でもね、この神殿には私の許可なく人が入り込めないとはいえ、万一という事があるわ。繰り返しになるけれど、昨日みたいな事が表沙汰になったら、ルドラ王の立場は今以上に危ういものになるのよ。その事は、分かるわよね?」
「 ―― そうだね、ごめん」
「分かってもらえればいいのよ。それさえ気をつけて貰えば、何をしても構わないし ―― 天地両神一族には、私から上手く言っておくわ」
「ありがとう、アディティー」
 申し訳なさそうに、ディアウスが言った。
 アディティーは笑いながら首を横に振る。
「お礼なんか言わなくていいわ。今回、あなたが私を頼ってくれた事は、本当に嬉しいのよ。
 こうしてあなたと2人だけで話したり、過ごしたのはどれ位ぶりかしら・・・もうずっと、長いこと、私はこういう時間が持てないものかと思い続けていたんだもの」
「・・・そうだね。私もよく昔の事を ―― あなたと2人で修行した時の事を、事あるごとに懐かしく思い出していた」
 と、言い合って、2人は笑い合う。
 それからアディティーは微笑んだまま立ち上がり、
「さ、もう少し眠ったほうがいいわ。頃合を見て、食事を届けさせるから」
 と言い、静かに部屋を出て行った。

 一歩外に出たら最後、無理矢理のようなやり方で天地両神一族の元に引き戻されることは目に見えていた為、ディアウスはその後、アディティーの神殿の敷地内から一歩も外に出ようとはしなかった。
 アディティーの同席を認めない限り日参するようにして訪ねてくるプリティヴィーや一族の者達にも会おうとせず、本を読んだり、アディティーと散歩に出たりして日を過ごしていた。

 そんな日々の中、ディアウスは度々、ルドラ王の事を考えていた。

 会いに行きたいとも思う。彼ともう一度、言葉を交わしてみたいと思う。
 しかしどうしてそんな風に思うのかが分からない。

 瀕死のルドラの治療をするという選択をした時も、その選択が正しいと分かってはいたが、内心迷いもあったのだ。
 あのままルドラを見殺しにするという選択をしたとしても、きっと他の一族は ―― アディティーとて、自分と一族を責めたりはしなかっただろう。
 天地両神一族が、その一族に名を連ねる高名な神々を過去2代の“ルドラ王”に殺され、数々の辛酸を舐めさせられている事を知らない者はいないのだから。

 過去2代の話だけではない、先日会ったルドラ自身がその手で預知者を殺した事実があるらしいという噂もあった。
 噂が真実か否かは定かではないが、そんな人物の事を、自分はどうしてこうも考え続けてしまうのだろう?
 “ルドラ王”という存在を恐ろしいと思う気持ちは、今でも変わらないというのに・・・。

 悩みに悩んだある日の夕暮れ、ディアウスは意を決してこっそりと、ルドラが住んでいる離宮に向かった。  ルドラに対する恐怖が消えたわけではなかったが、ディアウスは自分の記憶を消されてからというもの、物事が起きた後で“やはりああしておけば良かった”というような後悔を決してするまいと、心に決めていたのだ。

 離宮の警護をしているアディティーつきの戦神(いくさがみ)は、すんなりとディアウスを中に通してくれた。
 恐らくアディティーからの命令があるのだろう。と思いながら、ディアウスはそっと離宮の中に足を踏み入れる。
 美しい装飾を施された柱が立ち並ぶ廊下を抜け、階段を上がったところにある中庭に、ルドラはいた。
 中庭の中央部にあるあずまやの欄干の部分に腰掛けたルドラは、先日と同様手に分厚い本を持っており、近寄ってきたディアウスを見て微かに両目を細める。

 沈黙があった。

 何をどう言えばいいのか ―― ディアウスはとりあえず何故こんな所に自分が来たのかという理由を説明しようとしたが、適当な言葉が浮かんで来ない。
 それも当然だった、そんな理由はディアウスが一番知りたいものだったのだ。

「・・・そういえばそなたが俺の治療をするよう、周りを説得したのだと聞いていたのだ。礼を言わねばならぬな」
 焦れたように沈黙を破り、ルドラが言った。
「・・・い、いえ、それは・・・、薬師(くすし)としては、当たり前の事ですから」
 弾かれたように顔を上げ、何度か言葉を発する努力を繰り返してからたどたどしく、ディアウスは答える。
「建前としてはそうだろうが、当の怪我人がこのルドラだという事になれば、話は別だろう」
 と、ルドラは言った。そして少し唇を曲げて笑った。
 ディアウスもつられるように微笑み、
「関係ありません ―― などと言うのは綺麗事だと思いますけれど・・・でも、これからは心からそういう風に言えるようになってゆけばいいとは・・・、思います。出来る事ならば」
 と、言った。
 そして話題を変えるようにルドラの手元に視線を移し、
「・・・ところで、先日から熱心に、何をお読みになられているのですか?」
 と、尋ねた。
「歴史書だよ」
 ルドラは答え、手にした本の背表紙をディアウスに見せるようにした。
「歴史書・・・アーディティア神群のものですか?」
「いや、マルト神群の」
「マルト神群の?」
 訊き返したディアウスは、ルドラが手にした本を改めて眺める。
「でも・・・何故ですか?自分の神群の歴史は覚えていらっしゃるでしょう、既に」
「ああ、だが覚えているのは自分の神群から見た歴史だけだ」
 と、ルドラは答え、本を自分の手元に戻した。
「アーディティア神群から見たルドラ神群の歴史、というのも相当興味深い。大筋は大体同じだが、全く違う部分もある ―― どちらが真実なのかを知るのは当然、当時生きてその場にいた者だけだ。
 つまり歴史とは、決して画一的なものではないのかもしれない・・・などと・・・、そういう風に見てみると、実に面白い」
「・・・確かに言われて見ればそうですね。見る側によって、歴史と言うのは変わるものかもしれません」
「決して許されない行為、というのは変わらないだろうとも思うがね」
 感心するような声色で言うディアウスに、ルドラは言った。
 ディアウスはしかし、ルドラの自嘲気味な言葉をさらりと聞き流して続ける、「でもそういう本は確か、禁帯出ではありませんでしたか?」
「・・・そう、実はこっそりと持ってきたのだ。ちゃんと返すから、無垢の女神には内緒にしておいて貰えると有難い」、ルドラは真面目な顔で言った。

 それを聞いて、ディアウスは声を上げて笑い出す。
 その明るい笑い声を聞いて、ルドラも笑い ―― 笑いながら、座っていた欄干から降りた瞬間、ディアウスがびくりとして飛び退るように身体を引いた。
 筋肉反射的なディアウスの行動を見てさっと表情を消したルドラだったが、すぐに口元に苦笑を漂わせ、何もしない。と低い声で言った。
 そして、
「以前も言ったが、そなたの失われた過去の事は一切、俺は知らない。無理をしてこんな所まで来ても、得るものなど何もないぞ」
 ときっぱりと続け、踵を返し、足早に階段を降りてゆく。
「 ―― ルドラ王、待って下さい、私は・・・ ―― ・・・っ!!」
 ルドラの名を呼びながら、慌ててその後を追ったディアウスの足が、階段の途中でもつれた。
 声にならない悲鳴に振り向いたルドラが、階段を落ちかかったディアウスの身体を抱きかかえるようにして止める。
 ディアウスの身体を受け止めた衝撃に均等を失い、倒れそうになったのを何とか堪えたルドラの腕に抱かれたディアウスは、その刹那 ―― ルドラの力強い胸やその腕、手指や肌、そして彼の髪が頬と首筋を撫でる感触を感じた刹那、雷に打たれたような感覚を覚えていた。
 その感覚は決して不快なものではなく、どこか懐かしい、甘くさえ感じるような痺れであり、驚いたディアウスは顔を上げ、更に驚く。
 自分を見下ろしているルドラが、自分と全く同じ感覚を ―― いや、自分が抱く以上の激しい感情を持って自分を見下ろしている事が、分かったのだ。
 何故そんな風な事が分かるのかは分からない。ただ、とにかく、ディアウスには分かった。まるで、手に取ったかのように。

「ルドラ王・・・私は・・・ ―― あなたを・・・」

 震える声でそう言って、ディアウスは声と同様に震える手を伸ばしてゆく。
 その指が頬に触れる一瞬前、ルドラはディアウスを抱いていた腕を外し、素早く身体を引いた。