月に哭く

11 : 断ち切れないもの

「いくらなんでも、あれは行き過ぎではないでしょうか?」
 と、女官の1人が深刻な表情と声で言った。
「ディアウスさまとルドラ王があんな状態でいる事を天地両神一族に知られたら ―― 大変な騒ぎになるのは目に見えていますわ」
「アスラとの戦いが終息した所で、内部分裂が起こっては意味がないではありませんか」
「プリティヴィーさまも不安がって、こちらの様子を何とか探ろうとしているらしいですし・・・」

 口々にそう言う女官達を一通り眺めやり、アディティーは溜息を噛み殺す。

「・・・だから、何度も言っているけれど、私はルドラ神群とやり直せないかと考えているのよ。ここにいるルドラ王と深くはなくても交流を持ってみて、あなたたちだって感じるものがあるでしょう?あのルドラ王が噂どおりの残虐非道な人物だという風に思えるの?
 ある時点でお互いに赦し合わなければならないとしたら、今、この神殿にいる“ルドラ王”がマルト神群を統べている今以上にいい機会はないと思うのよ」
「おっしゃっている事は分からないではありませんわ、アディティーさま。でも」
 と、最初に口を開いた女官が言う。
「それは徐々に、ゆっくりと進めてゆくべきお話ではありませんか?最初から天地両神一族の天神をルドラ王との話し合いの場に出したりしたら、上手く行くものも行かなくなるのでは?」
「ディアウスがルドラ王と会っている件、あれは純粋にディアウス自身の意志であって、この話とは ―― アーディティア神群とマルト神群の関係を改善しようという話とは関係ないわ。
 もちろん、天地両神一族とルドラ一族のわだかまりを解く事が神群同士の歩み寄りの為には必要不可欠な過程になるとは思うけれどね」
 と、アディティーは一言一言を丁寧に選んで口にしながら、不安げな表情を隠さない女官達を見渡す。
「それに例えルドラ王とディアウスが会っているという話が表沙汰になっても、今は私の意見に賛同してくれる神々は少なくないと思うわ。だから、安心して大丈夫よ」

 そう言ったアディティーの顔に浮かぶ表情は決然としており、それ以上何も言い返せなくなった女官達がそれぞれに頭を下げて部屋を出てゆく。
 彼らの後姿が扉の向こうに消えたのを見届けてから溜息をついたアディティーの背後で、物音がした。
 振り返ったそこには ―― 女官達が出て行ったのとは別の出入り口の柱の影に、ディアウスがひっそりと佇んでいた。

「あら、ディアウス。いつからそこにいたの?」
 と、アディティーは尋ねた。
「少し前から・・・、声をかけそびれてしまって」
 ディアウスは答えて手にした小さな器をアディティーに差し出し、
「一昨日散歩に出た時に珍しい花を見つけて ―― それでお茶を作ってみた。アディティーが好きだったのを思い出したから・・・それにしても私は最近、人の話を立ち聞きしてばかり」
 と、ディアウスは苦笑した。
 アディティーが受け取った器の蓋を開けると、辺りにそこはかとなく甘い、芳醇な香りが漂う。
 その匂いを注意深く吸い込むようなそぶりをしてから、アディティーは嬉しそうに微笑んだ。

「懐かしい香りね、どうもありがとう、とても嬉しいわ。でも、この花はこの辺には咲いてないと言っていなかった?」
「一昨日、ルドラ王が訓練中の神馬の足慣らしに行くというから、連れて行って貰って ―― そこで偶然見つけた」
「ああ、そうだったの」
「・・・ごめん、アディティー」
「あら、どうして謝るの?」
 と、アディティーは器の蓋を閉めながら尋ねる。
「私がルドラ王といるのを見咎められるたび、あんな風に言われているのかと思うと・・・特に一昨日の件は目立っただろうし。
 私、最近では滅多に遠出を許される事がなかったから、ルドラ王に連れて行ってやろうかと言われて単純に嬉しくて・・・。アディティーに迷惑がかかるかもしれないとか、そういう事を考えなかった」

 そう言って俯くディアウスを観察するように眺めていたアディティーは、やがて無言でディアウスの腕をとり、自室の奥にある小ぢんまりとした部屋に彼を誘導した。
 暖かい日差しが差し込むその部屋の椅子にディアウスを座らせてから一旦部屋を出たアディティーは暫く後、手ずから入れたお茶を手に戻ってくる。

 そして湯気の立つ椀の片方をディアウスに渡しながら、
「それで、体調の方は?大丈夫なの?」
 と、尋ねた。
 ディアウスは首を振り、大丈夫、具合が悪そうに見えるのかな。と訊き返す。
 いいえ。と答えてから、アディティーはディアウスの前に腰を下ろした。
「具合が悪くないならいいのよ。あなたは昔、少し遠出をしただけで熱を出したりしていたから・・・、ちょっと心配だっただけ」
「そうだね・・・、でも今は私は大丈夫。ただ、アディティーにこんな風に迷惑をかけてしまっているのが申し訳ない」
「さっき言っていた事なら、気にしなくてもいいのよ」
 アディティーは事も無げに言ってお茶を飲み、口内に広がった懐かしい味にすっと目を細める。
「最初に言ったけれど、余り滅茶苦茶な事をしなければ、あなたが何をしようと構わないのよ」
「・・・でも・・・」
「私が本気で言っている事くらい、あなたなら分かるわよね、ディアウス」
 反論しようとしたディアウスの言葉を遮り、アディティーは言う。
「ここだけの話、私はずっと思っていたのよ。私にもっと力があったら、あなたがあんな風に縛り付けられてゆくのを止める事が出来たのに・・・ってね。今回の事だってそう。記憶を消すというプリティヴィーの選択を、私は止める事が出来なかった。一神群を束ねる女神として、私はなんて力不足なんだろうと思うと・・・、情けないわ」
「それは考えすぎだよ、アディティー。プリティヴィーの性格は他の誰よりも、私が一番よく知っている。あなたが今以上のどんな力を得ようと、プリティヴィーがやると決めた事を覆させるのは不可能だったと思う」
「そうかもしれないけれど、かと言ってそれで納得出来るかと言うと、そうでもないのよ」
 アディティーは目を伏せて、小さく溜息をつく。
「あなたが最後に私を頼ってきてくれた時、私は決めたのよ。今までずっと後悔し続けてきた歴史を、再び繰り返す事だけはするまいとね ―― あなたに関して、私が出来る限りの事は全てしようと思っているの。だから、何も気にしなくていいの、本当よ。あなたはあなたの思うようにすればいいわ」
「アディティー・・・」
 ディアウスは感謝の気持ちが満ち溢れた声で呟き、そっとアディティーの指に指を触れさせた。
 少ししてから、部屋に流れるしんみりとした空気を打ち砕くように、アディティーは明るい表情を浮かべて顔をあげる。
「それにしても不思議よね」
「不思議?何が?」
 と、ディアウスが首を傾げる。
「だってあなたったら、前は“ルドラ”って名前を聞いただけで真っ青になって、倒れそうになっていたじゃないの。そりゃあ長老達からあんなもの凄まじい逸話を聞かされ続けていたらそうなるのも道理だけれど・・・。
 それなのに話どころか、その当の本人と遠出に出かけるなんて。怖いとか、もう思わなくなったの?」
 と、アディティーが言った。
 ディアウスは首を少し傾げたまま、
「いや、怖いよ」
 と、間髪いれずに答えた。
「ええ?やっぱり未だに怖いの?それなのに、よく2人きりになったり出来るわね」
「そうだね、自分で考えても不思議なんだから、こんなの傍から見たらもっと不可思議だろうな・・・」
 ディアウスは言い、小さな音と共に空になった椀を床に置いた。
「もちろん、怖いだけじゃない。彼といると、安心するというか、落ち着いた気分になれる部分もあるんだ。どこがと聞かれて、どこってすぐに答えたりは出来ないのだけれど・・・どうしてか、今まで感じたことのない寛いだ気持ちを感じることが確かにあるんだ。
 彼の冷たい物言いや視線だって、あれは本心からのものじゃない。限りなく本人のものに近いけれど、根底で決定的にずれているというか・・・彼自身としっかり重なっていなくて、とても不安定で不完全なものを感じる。それは分かる?」
 そう問われて、アディティーは頷き、
「でもそれとは別に、怖いと思う時もあるのね」
 と、言った。
 ディアウスは小さく頷き、膝の上で腕を組む。
「例えば突然動かれたりすると、反射的に飛び上がってしまうというか・・・、身構えてしまうんだ。ルドラ王も、普段は無表情なくせにそういう時には何故か物凄く困ったような顔をするから、なんだか悪い事をしているような気がする・・・いや、気がするどころか凄く失礼じゃないか、こんなの。別に何をされたわけでもなく、しかも自分から会いに行っているっていうのに・・・、考えれば考えるほど、こんなのって酷い話だと思って慌てて謝ると、ルドラ王はもっと不機嫌になってしまうし。怒る気持ちも分からないではないけど、突然動かれると、つい派手に反応しちゃって」

 ぶつぶつと不安げに言い募られてゆく言葉を聞いていたアディティーはそこで堪えきれない、と言った風情で吹き出した。
「・・・どうかした?」
 と、ディアウスが不思議そうに聞いた。
 いえ、ちょっと・・・。と答えになっていない答えを返しながらも、アディティーは込み上げて来る笑いを止める事が出来ない。
 ディアウスがこんな風にとりとめのない話をするのを初めて聞いたせいもあったし、彼が真剣に話している内容がどことなく微笑ましかったせいもあった。
 それにルドラ王がどんな表情で脅えるディアウスを見ていたのかしら?などと、反射的に想像してしまったせいもあったかもしれない。
 ただただディアウスの為だけにこの地に留まっている ―― 本人は認めなかったが、理由はもう、それ以外に考えられなかった ―― ルドラがその当の相手に脅えられている、というシチュエイションは哀れすぎると同情もしたのだけれど。

 しかし ―― と、笑いをおさめたアディティーが次に考えたのはやはり、雨神の神名(しんめい)を持つ戦神(いくさがみ)の事だった。
 彼が長い、長い間、ディアウスただ1人を強く、激しく想い続けていた事を知らぬ者は、おそらくアーディテイア神群には1人もいない。
 これまで誰に言い寄られても殆ど揺らぎを見せなかったディアウスが、よりによってルドラ王に心を許しかけているという事実を知ったら、天地両神一族は当然の事、パルジャとて黙っていないに決まっている。
 預知の力を持つ天地両神一族を忌み嫌っているルドラ一族も、それは同様に違いない・・・ ―― 。

 先程、心配する女官たちに“ディアウスの行動と両神群の関係改善の話は別問題である”と言ったものの、ディアウスとルドラの関係が両神群に及ぼす影響は計り知れないだろうとアディティーは予測していた。
 2人の関係が今後どういう展開を見せてゆくのかはわからない。が、どういう形にしろ、どんな障害が生じるにしろ、2人の人生が複雑に絡み合ってゆくのを止める手立てがない事だけは分かる。
 記憶を消してもなお断ち切れないものが、2人の間にはあるのだ。

 そうだとするならば、自分が出来る事は彼らにとって過ごしやすい場を整える事くらいなのだと、幾日も前から自分に言い聞かせていたアディティーだった。
 が、同時に、結局自分は側で見ている事しか出来ないのかと苦々しくも思うのだった。