12 : 理想を現実に
それから様々な話をする中、話題のあちこちにルドラの名を口にするディアウスを見ていたアディティーは、暫し悩んでから居住まいを正す。
「ところでディアウス、相談があるんだけれど」
「・・・どんな相談?」
「これはもう少し時間を置いて様子を見てから、あなたに話そうと思っていたのだけれど・・・」
と、アディティーは言う。
彼女の様子や物言いが先程までと違うのを敏感に察したディアウスも、身体を真っ直ぐに起こして表情を改める。
「どんなことでも出来る限りのことはするよ。今回、あなたにこんなに迷惑をかけたこと ―― と、そこでアディティーが抗議の声を上げようとするのをディアウスは手を上げて遮った ―― あなたが迷惑だと思っていないのは分かった。でも私がここにいる事であなたに使わせなくてもいい気を遣わせているのも事実だから。
今回のことは本当にあなたに感謝している。ここに住まわせてくれたのも勿論だし、私がここで暮らすのに反対した一族の者達を説得し続けてくれたのも・・・。
お陰で私は色々な物事を冷静に考えられるようになったし、会う筈のないルドラ王と会って、そこから多くの事を学ぶ事が出来たように ―― 出来るように思う。
だから私に出来る事があるのならなんだってするよ、アディティー」
「・・・ありがとう ―― 話というのは、他でもない、そのルドラ王についての事なのよ、ディアウス」
と、アディティーは言った。
「もっと正確に言えば・・・マルト神群の事ね」
「マルト神群・・・」
ディアウスは繰り返し、さっと目を伏せた。
伏せられたディアウスの長い睫毛が幾度か震えるのを見たアディティーが、やはり早すぎたのだろうか。と後悔しかけた時、ディアウスが顔を上げた。その表情は硬くはあったものの、嫌悪や脅えの影はなかった。
大丈夫?とアディティーは確認し、ディアウスは静かに頷く。そして、
「アディティーは私たちの神群と、マルト神群との関係を良好な形に導いてゆきたいと考えているのだろう」
と、淡々とした声で言った。
「そう。そう出来ればと、思っているのよ」
「ルドラ王も?」
「ええ、そうね・・・。最終的な目標としてはそれで一致しているのよ。
怪我を負ったルドラ王がこの神殿で療養している間 ―― 私達は何度も何度もこの件に関して話し合っていたの。いえ、話し合っていた、なんて生易しいものじゃないかも知れない。時には大声で言い争いのようになったこともあるのよ。心配した女官が部屋に駆け込んで来たりするくらいにね」
と、言ってアディティーは笑い、ディアウスも小さく笑った。
「ルドラ王と喧嘩を?」
「喧嘩・・・そうね、殴り合うまではしなかったけれど」
「アディティー、そんな」
「だってルドラ王ったら、反対する者がいたらとにかく武力で押さえつけていくしかないの一点張りなんですもの。力で押さえつけて言う事を聞かせているのでは駄目だというのが私の意見なの。武力を行使して平和を作ろうとしても、それは血を流さない戦をしているのと同じだとね。もちろん、これが理想論だと言われるのも、分からないではないのだけれど」
「ルドラ王にそれは理想論だと言われた?」
と、ディアウスが訊いた。
「ええ、呆れたように何度もそう言われたし・・・言葉にしないまでも、わざとらしい溜息を100万回くらいつかれたわ」
と、アディティーが顔を顰めるのを見て、ディアウスはくすりと笑う。
「でもルドラ王があなたの意見を理想論だと糾弾するならば、ルドラ王もそれが理想ではあるとは、思っているのだろう」
さらりとディアウスが言った言葉について考えてみてから、そうかしら?とアディティーは首を傾げた。
「そういう事だと思うけど・・・折を見てそう言ってみるといい、ルドラ王に。きっと言葉に詰まって、黙ってしまうに決まってる」
ディアウスは更に笑い、笑いをおさめて続ける。
「確かにあなたの言う説が理想論だと、私も思う。でも理想というのはそれが最良だと思う者が多くいるからこそ、理想と言われる訳だからね。
理想ばかりを追いすぎてはいけないと思うけれど、理想をなくしてしまったらもっといけないと思うし・・・ルドラ王もそれは分かっているんじゃないかな」
「そうかしら、私はそう楽観的にはなれないわ。あなたはルドラ王とそういう話をした事がないから分からないだろうけれど」
と、アディティーは溜息混じりに言った。
「あなたが理想を追う分、自分は真逆の方向に走って均衡を取ろうとしているんだろうな」
当然の事のように呟き、ディアウスは手にした椀を下に置く。
「・・・それで、頼みというのは私の一族を説得してくれという事かな」
「え?ああ、そうね・・・説得というか・・・」
どうしてそんなにルドラ王の事が分かるのかしら?私は彼が考えている事が未だにさっぱり分からないのに。と驚き半分、感心半分の気分でいたアディティーは、いつの間にか話の論点が微妙にずれてしまっていたのに気付き、軽く咳払いをして頷く。
「幾度話し合っても、話し合うたびに辿りつくのはとにかく最大の問題はあなたの一族 ―― 天地両神一族とルドラ一族の確執だろうという話になってしまうのよ」
「・・・それはそうだろうね」
「今すぐに何もかもを忘れたりとか、水に流したりとかが難しいのは分かっているの。ルドラ王がとにかく力で押さえつけるしかないだろうと何度も言うのはそこなのよ。でも問題が問題なだけに、力で押さえつけるのでは解決にならない ―― いえ、解決するどころか、事態は更に悪化するんじゃないかとさえ、私は思うの」
アディティーは真剣な声で言ったが、ディアウスは厳しい顔をしたまま、何も答えようとしなかった。
祈るような心地で、アディティーは更に言う。
「争いごとをやめる為には、最終的には赦し合うという行為が必要不可欠だと思うのよ。ルドラ王が言うように、力が必要な部分もあるかもしれない。でも結局はお互いに赦し合う姿勢がなくては、争いは決して本当の意味で終らないわ。これは理想論などではなく、絶対だわ。
私も、アスラ神群に対してはこんな気持ちにはならなかった。でもマルト神群に関してはまだ歩み寄りの余地があると思うの。アスラ神群が消滅して、現ルドラ王がマルト神群を統べている今を措いてやり直す機会はないと思わない、ディアウス。協力してくれないかしら ―― 天神として」
それから長い間、ディアウスはじっと押し黙って身動きひとつせず、その場に座っていた。
彼がその内面で目まぐるしく様々な事を考えているのが手に取るように分かったので、アディティーも黙ったまま、ディアウスが考えを纏めて口を開くのを待つ。
どれ位の時間が経っただろう ―― 大袈裟でなく太陽の角度がはっきりと変わるのが分かる程の時が経っていた。
その間ぴくりとも動かず、一心不乱に何事かを考えているディアウスの集中力に、アディティーが尊敬の念すら抱き始めた頃。
ディアウス顔を上げ、
「はっきり言って、不可能に近いと思う」
と、しんとした声で言った。
「ディアウス、でもね・・・」
「いや、最後まで聞いて欲しい」
でも、と言い掛けたアディティーの手を掴み、ディアウスが言う。
その手には痛みすら感じるほどの力がこめられていた。
「私の一族に関して言えば、赦す赦さないという次元を超えている。この私個人の意見を言うなら、あなたの言う通りだと思う。水に流してやり直すのに、今以上の機会はない事は良く分かる。でも ―― 私がいくらそう言っても、その意見を押し通す力は私にはないと思うんだ。悪いけれど」
「それは違うわ」
哀しげなディアウスの言葉を聞いたアディティーが、咳き込むように言い返す。
「天地両神一族の長は紛れもなくあなたなのよ、ディアウス。あなたが天地両神一族を変えられないとしたら、一体他の誰が変えられるというの?それこそ他の人では不可能よ」
「私にはそうは思えないんだよ、アディティー。だって私は所詮、意識のない間に記憶を操作されてしまうような存在でしかないのだから」
と、ディアウスは言った。そして数回、首を横に振った。
「大事にされているのだとか、傷付けたくなかったとか・・・、皆そう言うけれど、つまるところ、蔑ろにされているのと同じ気がする。そんな私に、一体何が出来る?」
「そんな事を言ったらディアウス、私だって何が出来るかなんて分からないわよ。でもただ、何が出来るだろうかと立ち止まって悩むよりもまず、何かを成し遂げられるかもしれないと考えて、行動を起こそうとしているだけだわ」
アディティーの言葉を聞いたディアウスは思い出していた ―― ルドラが何回目かに会った時に口にした言葉を。
神々の全てが、持っている力に揺ぎ無い自信を抱いていると思うか。というルドラの言葉を。
あの言葉は決して慰めから発された言葉ではなかったのかもしれない。
自分の力や能力に価値を見出せずに悩んでいるのは、自分だけではないのかもしれない ―― と、考えたところでディアウスは心底不思議な気分になる。
何故か最近、事あるごとに彼の・・・ルドラ王の言葉や、冷たく引き結ばれた口元に時折よぎる微笑を思い出している気がした。
側にいる時は恐怖を感じることが多々あるというのに、離れてみて思い出す彼に関する事柄は、じわりと暖かい甘さを纏っているのはどうしてなのだろう・・・ ―――― 。
「・・・確かに何事も、やってみなくては分からないか・・・」
やがてディアウスは、まるで自分に言い聞かせるように言った。
独り言のような声だったが、それを聞いたアディティーの表情が、ぱっと明るくなる。
「それはつまり・・・力を貸してくれるという事、ディアウス」
「私にどれ程の力があるのか分からないけれど、力の限りあなたの考える理想に現実を近づける為の努力をしてみる。あなたの意見が正しい事は分かっているし、私は昔から、あなたを信じているから ―― でもこれから・・・きっと、大変な騒ぎになるだろうな」
「そうね、楽ではないでしょうけれど、やり抜くんだと決めて頑張るしかないわね。
でもあなたがこの意見に賛同してくれるなら、こんなに心強い事はないわ。何よりも天地両神一族の事が不安だったんですもの ―― これでルドラ王も安心して国に帰って、話を進められるでしょう」
と、アディティーが言い ―― 微笑みながらアディティーの弾むような声を聞いていたディアウスの表情が、最後の一言を聞いて強張る。
「・・・ディアウス・・・、大丈夫?どうしたの?」
唐突なその表情の変化に驚き、アディティーが心配そうに言った。
「国に帰るって・・・ルドラ王は、マルト神群に帰るのか?それはいつ?」
と、ディアウスが尋ねる。
それは平静を装おうとしたものの、その試みが完全に失敗したようなぶれた声だった。
「・・・ルドラ王から、聞いていないの?」
と、躊躇いがちにアディティーが確認するのに、ディアウスは頷いて答える。
考えてみればもうずっと、長いこと国を留守にしているルドラが国に帰ろうと考えるのは当然だった。
だが自分がこの宮殿に来てからそういう話は全く聞いていないし、ルドラも帰る素振りを全く見せなかったので、もう暫くはこの地に留まるのだろうと、ディアウスは思い込んでいたのだ。
「・・・もう随分前から帰らないとという話は出ていたのよ。あなたも知っている通りルドラ王の傷も完治しているし、龍宮殿も大分前に再建がほぼ完了しているし。今言った件も英雄神にだけはそういう方向で、という話をしているらしいけれど、それだけでは埒があかないし・・・。
今日明日という話ではないけれど、あと10日のうちには、という話で進んでいるはずよ。あの・・・、ごめんなさい、勿論とっくに聞いていると思って・・・」
「いや、いいんだ、考えてみれば当たり前の話なんだから。いつまでもここにいる訳がない事は言われなくても分かる、至極当然で自然な話の流れだ。
じゃあルドラ王が国に帰るのと同時に、こちらも色々と進めておかなくては・・・天地両神一族にどう話を伝えてゆくか、どう根回ししてゆくかとか・・・、例えどんなに考え抜いたやり方で伝えても混乱する事は必至だろうけれど・・・」
と、ディアウスはその後、アディティーが口を挟む間を与えないような勢いで、まくしたてるように話し続けるのだった。