13 : 透明な鎖
その日からディアウスは毎日のように、アーディティア神殿の離宮のルドラを訪ねるようになった。
しかしディアウスはルドラが近日中にマルト神群の領地に帰る事になっている件については一切触れず、ルドラもディアウスには何も言わなかった。
突然、訪れるというより入り浸るというのに近い状態でディアウスがルドラの元に通い詰めている、その行動を不審に思った女官が数人、連れ立って様子を見に行くと、ルドラとディアウスは人が3人ほど座れる位の間をとって向き合い、思い出したように時折会話を交わしているだけで ―― 特に話が弾んでいるという風でもなく、かといって緊迫した雰囲気もそこにはなかった。
差し当たってルドラがディアウスに危害を加えたりという心配はなさそうだと安心はしたものの、毎日毎日顔を合わせてする共通の話題があるとは思えない2人が、何故あんなに一緒の時間を過ごさなければならないのかと、女官たちは首を傾げる。
あれは一体どういう事なのでしょう、あのままにしておいて、大丈夫なのでしょうか。と尋ねられたアディティーは微妙な角度に首を傾げ、放っておきなさい。と言うだけで、それ以上は何も言おうとはしなかった。
一応客人として礼を失さない程度の扱いはされてはいたが、やはりアーディティア神群の中でルドラの立場は微妙なものであった。
そのためルドラがマルト神群の領地に帰還するという事実は周りに大々的に知らされる事はなく、準備は表立つことなく静かに進められていた。
そしてマルト神群の領地に帰る日が次の日に迫った夜更け、そろそろ寝ようと手にしていた本を閉じて寝台側の明かりを消そうとしたルドラは、扉を叩く小さな音に気付いて反射的に枕の下に隠した小剣に手を伸ばす。
誰だ。という問い掛けを受けて部屋に入ってきたのがディアウスである事を知り、ルドラはほっと息を吐いた。が、すぐに彼がこんな深夜にここへやって来た事の不審さに気付く。
「・・・一体どうしたんだ」
と、ルドラは尋ねた。
ディアウスは答えず、足音を立てずに寝台の側にやって来て足を止め、そこからルドラを見ろす。
「何か、急ぎの用事でも?」
まるで夢の中から唐突に抜け出して来た様に、ぼんやりとそこに佇んでいるディアウスに、ルドラはもう一度 ―― 先程よりもこころもち大きな声で尋ねた。
そこでようやく、ディアウスは数回瞬きをしてから目を伏せ、
「明日、お帰りになるのですよね」
と、小さく言った。
「そうだが、それがどうか・・・」
「どうして、言って下さらないのですか」
ルドラの声など全く聞こえていないかのように、ディアウスは言う。
「いつ言って下さるのだろうと、ずっと、待っていたのですが」
「・・・知らなかったのか?とうに聞いて、知っているとばかり・・・」
「もちろん、聞いて、知ってはいましたが」
と、ディアウスが言い、それを聞いたルドラは訳が分からず、柳眉を寄せる。
「では、何が問題なのだ」
「・・・別に・・・問題はありません。何も・・・何ひとつとして、問題なんかありません」
ルドラはそんなディアウスを訝しげに、窺うように眺めてから溜息をつく。
「悪いが、そなたが何を言おうとしているのか、俺にはさっぱり分からない。
とりあえず今日はもう遅いし、部屋に帰れ。言いたい事があるのであれば、明日聞くから ―― 」
「今夜は、ここに泊めて下さい」
再びルドラの言葉を遮って、ディアウスが言った。
今度こそ完全に返す言葉を失い、ルドラは唖然としてディアウスを見上げる。
「・・・突然、一体何を言って ―― おい、ちょっと待て・・・!」
数瞬の空白の後、ルドラは何とか口を開いたが、ルドラの枕辺へと足を進めたディアウスが腰帯に手をかけるのを見て、慌ててその手を掴む。
「そなた、自分が何をしようとしているのか、分かっているのか・・・?」
「もちろんです」
「・・・あのな・・・、とにかく・・・いいか、とにかく、ちょっと落ち着け」
「私は落ち着いておりますが」
と、ディアウスは平坦な声で言い、ベッドの端に腰を降ろし、膝の上で左右の手の指を組んだ。
そしてその組んだ手を見下ろしながら、口を開く。
「ここ数日、あなたと一緒にいて・・・私は、どうしても、確かめてみたくなったのです。確かめないままに、あなたと別れる訳にはいかないと思ったのです」
「確かめる・・・?何を?」
「私があなたを“知っている”のかどうかを ―― です」
そう言って、ディアウスは首を回してルドラをじっと見た。
ルドラもそんなディアウスの真っ直ぐな視線を長いこと受け止めていたが、やがて長い、否定的な溜息をつく。
「そなたが何かを確かめたいと思うのは勝手だが、その為に他の者を道具のように使うというような行為は、まともとは言えないのではないか。
少なくともこの俺は、そんな風に他人に“使われる”のはまっぴらごめんだ」
「でもルドラ王、あなたは・・・」
「それに」
反論しようとしたディアウスをぴしゃりと跳ね除けるように、ルドラは続ける。
「俺が少し動いただけで脅えるような相手を、抱く趣味はない。もう帰れ。明日、出立の前に挨拶に行く」
「今日はここに泊めていただきます」、とディアウスは繰り返す。
「帰れと言っている」、とルドラも繰り返す。
「いいえ、嫌です」
と、ディアウスは何故か哀しそうに顔を歪めて言った。
「失った記憶の中にあなたがいるのではないかと、私はあなたと初めて会った時から漠然と感じていました。それを確かめたいと言う気持ちがあるのも本当です ―― 先程言ったように。でも・・・、それだけでこんな事はしません、私は・・・ルドラ王」
そこまで言ったディアウスは真っ直ぐにルドラに注いでいた視線を夜具へと落とし、呟くように続ける。
「あなたが国へ帰られると聞いてから ―― 私は胸騒ぎがしてならないのです」
「・・・胸騒ぎ?それは・・・どのような?」
と、ルドラは尋ねる。
「それがきちんと分かれば苦労はないのですが」
と、ディアウスは力なく答え、再び顔を上げた。
「いや・・・、はっきりと“何が、どうなる”という事まで分からなくても良いが・・・、不安とは、また戦が起こるというような方向性のものなのだろうか。それとも・・・」
「そうではありません。そういう方向の予感ではなく・・・、これは恐らく、個人的な恐れなのではないかと思います」
「個人的?」
「ええ。もう二度と、あなたとは会えない、というような・・・」
と、言ってディアウスはこめかみに細い指先をあてがった。
「・・・良く、分からないのです。こんな感覚は初めてで・・・ただの予感にしては明確な感じがしますし、預知のような禍々しい雰囲気はないような・・・ただ、訳もなく不安で・・・堪らないのです。怖くて・・・」
心細げに言葉を紡いでゆくディアウスの独白を聞いていたルドラは、何とも声のかけようがなく、黙っていた。
―――― 私は二度と元通りの私としてはあなたに会えない ――――
以前のディアウスが別れ際に叫んだ悲痛な声を、ルドラの耳は未だ、鮮明に覚えていた。
記憶を消される事を知らぬまま、しかし漠然とした予感を感じていたのであろう ―― 別れる直前に感じた預知の恐怖を、彼は覚えているのだ。
刻まれた記憶が消されても、預知が落とした影の禍々しさは消えず、記憶という核を無くした感覚という名の透明な鎖が、彼を縛っている。
可哀想に、とルドラは思う。
強大な力を有し、その力の圧力にひとりで耐え忍ばねばならない辛さは知っていた。
龍宮殿に引き取られ、預知者の血を浴びる事で目覚めた力の途方もない強大さに、逃げ出したくなることもあった。
だが無論、自分自身が持つ力から逃げ出すことなど出来はしない。
今日も明日も明後日も、その先もずっと、自分自身からは逃げられないのだ。永久に目を閉ざす最期の瞬間まで、この手とこの足で、自らに課せられた重圧に耐えてゆくしかないのだ。
しかし身体や精神を鍛える事で多少力を制御出来るようになったルドラとは違い、彼の力はどう努力しても、決して、一片たりとも、本人の自由にならない力だった。
成す術もなく、ただただ与えられるだけの、行き場を持たない預知能力 ―― その力が大きく、強くなればなるだけ、彼の中に見えない傷が増えてゆくのだろう。
その傷が生む痛みを想像しただけで、吐き気がするほどだった。
誰の役に立つ訳でもなく、時には自分自身を害す事すらある能力など、どう考えても持たない方が楽に決まっていた。
可哀想に、と再びルドラは感じ、同時に預知とは何と言う悲しい能力なのだ、と思う。
そしてディアウスの長い睫毛の向こうの、危ういほどに澄んだ青い瞳を見ている内に、誰かが、揺ぎ無く彼を側で支えなければ、彼の精神はやがて粉々に砕け散ってしまうのではないかと不安になり ―― 刹那 ―― はっとして、ルドラは息を呑む。
初めて会った預知者であるサラスの、最後の預知の言葉が、突如鮮やかに脳裏に蘇る。
どの位前の出来事だったか思い出せないような過去から、サラスはこの出会いを預知していたというのだろうか。
これまで意味が分からない。と思っていたサラスの預知が、今、この一瞬を境にして一気に現実味を帯びてゆく様を、ルドラは呆然として眺めていた。
目の前にいるディアウスの預知が、ヴリトラの前で明確な助言に移り変わって行った時と同様に。
しかしまさかサラスは、俺が彼と出会う事を、最初から知っいたのだろうか?
自らの命と引き換えにまでして俺に預知者と言うものについて教えようと ―― 教えなければとサラスに決意させたのは、その時点ではまだこの世に生を受けてすらいなかったディアウスだったのだろうか・・・?
そんな ―― 、そんな事が、あるのだろうか・・・ ――――
預知というものが持つ得体の知れなさに思いを馳せたルドラは、どんな戦場でも ―― ヴリトラと戦っている時ですら ―― 覚えなかった恐怖を覚え、背筋が凍りつくような感覚を堪えるように、目を閉じた。