月に哭く

14 : 思い出せなくて

「・・・ルドラ王・・・?」

 ディアウスに呼ばれたルドラは、我に返って顔を上げる。
 そして改めて目の前にいるディアウスを見た時、なんとも名状しがたい激しい衝動が喉元にこみ上げた。

 がむしゃらに彼を抱き寄せて、口付けたいと思った ―― が、ルドラはその衝動を必死で押さえ込み、それと分からないように、何度も深呼吸を繰り返す。

 今、記憶を失って不安定な状態にいる彼を抱いてしまうのは、以前愛していたディアウスに対する裏切り行為である気がした。
 龍宮殿で触れ合ったディアウスと、目の前にいるディアウスが同じ人物である事は分っている。だが明日、自分はアーディティア神殿を離れる事になっているのだ。
 そんな自分がディアウスを抱いてしまうのは、酷く汚い、中途半端な行為である気がするのだ。

 今はまだ駄目だ ―― それなら一体いつならいいのだと、自分の中で疑問の声を上げる自分自身がいるのを自覚していたが ―― 少なくとも両神群の行く末が全く見えない、進む方向性すら定まっていないような状態である今は絶対にその時ではないと、ルドラは自分に言い聞かせる。

「・・・夜にする悩み事は、あまり明るいものにならないと、相場が決まっている」
 無理矢理引っ張り出してきたような微笑を口の端に貼り付けて、ルドラは言う。
「焦る事はない、俺はこれから度々アーディティア神殿に来るつもりでいるし、その時々に、そなたとも会う機会を作れると思う。そうすれば、徐々に慣れてゆく部分もあるかもしれない」
「・・・慣れるというのは、あなたに ―― という事でしょうか」
「そなたが俺にというか・・・、それもあるが、なにより今後両神群の関係を変えてゆこうとする時、アーディティア神群を率いてその流れを作ってゆかねばならぬそなたが、俺やマルト神群の戦神(いくさがみ)に会うたび怯えているのでは具合が悪いだろう。
 俺とて、何という事のない動作の度に飛び上がられるのは、それなりに堪える」
「すみません」
 じっとルドラを見たまま、ディアウスは謝る。
「でも、もう大丈夫です」
「大丈夫、とは?」
「気付いていらっしゃらないのですか?」
「・・・何を?」
「私はもう、怯えたり怖がったりはしていません。他のマルト神群の戦神(いくさがみ)の方々にはきちんと会っていないので、分かりませんけれど・・・、あなたに怯える事は、もうありません」
 と、ディアウスは言った。
「さて、それはどうだろうな」
「信じていただけないのですか?」
「口ではどうとでも言えるからな」
 と、ルドラはそっけなく言った。
「さて、本当にそろそろ帰ったほうがいい、ディアウス」
「今日は帰らないと ―― 私は何度も言ったと思うのですが」
 ディアウスが呟くように言い、それを聞いたルドラは深い溜息をつく。
「そんな一方的で勝手な言い分を聞く気はない。いいからもう帰ってくれ。早く出て行け」
「嫌です」
 ルドラを見詰めたまま首を横に振るディアウスの頑なさに、思わず漏れそうになった舌打ちを堪え、ルドラは寝台の影に隠していた小剣に手を伸ばす。
 これ以上押し問答をしていても埒が明かないのは目に見えていたし、それを突きつけるような素振りをして脅せば、流石に怯えて去ってゆくだろうと思ったのだ、しかし ――――

 しかしルドラの絶妙とも言える剣さばきにより、短剣の切っ先と喉の皮膚の間には向こうが透けて見えるような薄い膜程の隙間しかなかったにも拘らず、ディアウスは身動きひとつしなかった。
 身動きしないどころか、ディアウスは息を呑むことも、目を瞑る事さえ ―― 瞬きすらしなかった。
 少なくともそのように、ルドラには見えた。

 沈黙があった。

 やがてルドラの手から短剣が取り落とされ、取り落とされた短剣は寝台の上で1度跳ねてから、音を立てて床に落ちてゆく。
 吐息のような声でルドラがディアウスの名を囁き、そのルドラの首に、ゆっくりとディアウスの細い両腕が回される。
 至近距離で視線が絡み合った瞬間、ルドラは殆ど反射的にディアウスを抱き寄せ、その唇に激しく口付けた。

 互いの腕を互いの身体に回して抱き合った時に生まれた衝動を抑えられるものは、もはや何もなかった。
 明日、ルドラがこの地を離れてゆくことや、ディアウスの記憶のあるなしなど ―― そういった事実はその衝動の前では意味をなさず、肌を深く触れ合わせた瞬間に、何もかもが影にすらならずに消えて行ってしまう。

 幾度も抱き合い、全てが終った後 ―― それでも離れ難いという気持ちをお互いに消し去れず、きつく抱き合ったままの状態で、ルドラが困ったように小さく笑った。
「・・・何ですか?」
 首だけを動かしてルドラを見上げ、ディアウスが聞く。
「いや・・・、あまり人目に付かないような場所で、不用意にそなたと2人きりにならないでくれと、無垢の女神から散々言われていたのだ。それがこんな・・・」
「その点でしたら大丈夫ですよ、心配はいりません」
 と、ディアウスは自信ありげに言う。
「心配いらない?何故?」
 と、ルドラは首を傾げて聞く。
「ここに来る前に、ちゃんと断って来ましたから」
「断って・・・とは・・・何を?」
「ですから、ここに泊まる事をです」
 あっさりとディアウスは言った。
 至極当然の、驚くに値しない事でも言ってきたようなその口調に、ルドラは暫し茫然としてから、
「それで ―― そんな事を言われて、無垢の女神は駄目だと反対しなかったのか?」
 と、尋ねた。
「ええ、別に・・・。ちょっと黙った後で、そんなの、好きにすればいいじゃないの。と言っていました」
 と、ディアウスはやはりどうという事はない。といった口調で答え ―― ルドラは一瞬呼吸を止めて黙ってから、今度ははっきりと声を上げて笑い出す。
「そなた達が何を考えて行動しているものやら、俺にはさっぱり分からない。俺に対しては相当厳しい言い方で忠告していたくせに、好きにすればいいとは、全く・・・」
 笑い続けるルドラの腕の中で、何がそんなに面白いのだろう?とディアウスは不思議に思い ―― 不思議といえば、あんな風に深く触れ合った後で、何の照れもなく自然に会話を交わしている自分たちの方が不思議だ、と考える。

 夜半にルドラを訪ね、彼の前では平静な態度を取り繕いながらも、やはり緊張してはいたのだ。もちろん。
 しかしいざ抱き合ってみると、ルドラの腕の中はとても心地よく、安らいだ気分になれた。
 最後に身体を離した瞬間、虚しい気分になってしまったほどだ。
 他人といてこうも寛げたり、安心出来たりしたのも生まれて初めてだった。

 記憶を消された状態で目覚め、それ以降ずっと求めてきた“誰か” ―― それはやはりルドラだったのだ、とディアウスは思う。
 もしかしてそうなのではないかと彼と顔を会わせる度に感じていたが、それが今では確信となっていた。
 プリティヴィーがどこまで事情を知った上で自分の記憶を消したのかは分からない。
 しかし何よりも大切にしたい、決して忘れたくない記憶が、妹の手によって勝手に消し去られてしまった事だけは確かだった。

 そしてそれは恐らく、ルドラ王にとっても同じ事であったのだろう。
 自分が忘れたくないと思っていた事はルドラにとって“忘れられたくない”記憶であったに違いない。
 ルドラはディアウスの失った記憶については一切何も言わなかったし、過去のディアウスと交流があったというような事をおくびにも出さなかった。だから、根拠は何もない。
 だが今のように冗談めかして笑ったりしてはいるものの、抱き合っている最中、ディアウスの身体を抱き寄せる彼の腕や、肌を這う彼の唇や指 ―― 切羽詰ったような愛撫の全てが、如実にそれを物語っている気がした。

 再会してからずっと、彼が自分に対してどこか一線を画していたのも ―― その線は明らかにアディティーに引かれた線とは違っていると、ディアウスは感じていた ―― そういう過去を自分が忘れてしまっていたせいだったのだろう。
 彼はもしかしたら、自分との過去を全てなかった事にしてしまおうと決心さえしていたのかもしれない。

 いや、きっとそうだ。
 過去に自分達がしていた恋(だったのだろう、恐らく)はどう考えても祝福された筈はなく、それはこれからも同じだろう。
 アーディティア神群とマルト神群が和解する方向で話を進め、それが上手く行ったとしても、ルドラ一族と天地両神一族が芯から和解するなど、不可能に近い。
 ディアウスにはそれが良く分かっていたし、ルドラも予想はしているだろう。
 それならば、全てを自分の胸ひとつに収めて生きてゆけばいいと、ルドラならそう考えるに違いない・・・。

 他人の事なのにどうしてこうも確信を持って言い切ってしまえるのか分からなかったが、共に過ごす時間が増えるにつれ、ルドラの思考が手に取るように理解出来てしまうのだ。
 それは常々感じる預知や勘とは、ちょっと違っているようにディアウスには思えた。

「・・・アーディティアは戦神(いくさがみ)が少ないので大人しく見られる傾向があるようですが」
 と、ディアウスは内心の思いを隠して明るい声で言う。
「そんな事はないんですよ。正式な戦神(いくさがみ)こそ少ないですが、戦神(いくさがみ)に似た“気”を持っている神は沢山いますし・・・。
 こういう意外性というのは、お互いから見るとかなり大きいものでしょうから、それが何かのきっかけになるといいですよね。ひとつひとつは小さくても、それが積み重なれば何か大きな動きに繋がるかもしれません」
「そうだろうか?」
「・・・あの・・・、いえ勿論、そう簡単にはいかないでしょうが・・・」
 何だか夢物語に近い話をしてしまっただろうかと思い、慌ててディアウスが言葉を付け加えようとするのをルドラは遮り、
「いや、上手く行くと言ってくれ」
 と、どこか楽しそうに言った。
「・・・え?でも・・・」
「信じる力というのは、時に不可能をも可能にするものだ。そなたが大丈夫だと言うのなら絶対に大丈夫なのだと、俺は信じるから」
 冗談めかして、ルドラは言った。

 しかしその声の底に冗談だけではない、真剣な響きを感じ取ったディアウスは改めてルドラを見上げ、
「・・・そうですね。大丈夫ですよ。きっと何もかも、上手く行く日が来ます」
 と、静かな口調で言う。
 それを聞いてルドラは微笑む。
 ルドラの顔に浮かんだ微笑みは、これまで見せてくれていた微笑みとは違う暖かいもので ―― それを見たディアウスも反射的に微笑んだ ―― が、その顔に浮かんだ笑みは瞬く間に歪んでゆき ―― やがてディアウスの目尻から、透明な雫が零れ落ちる。

「・・・ごめんなさい・・・」
 と、ディアウスは震える声で言った。
 何故謝るのかと尋ねる代わりに、黙ってその涙を指で拭うルドラに、ディアウスは囁く。
「・・・忘れてしまって、ごめんなさい。思い出せなくて・・・、ごめんなさい・・・」
 そう言って静かに泣き続けるディアウスの身体を、ルドラは無言のままそっと抱き寄せた。