月に哭く

15 : 恐ろしい疑惑

 次の日、ルドラは予定通りアーディティア神殿を出て龍宮殿に戻って行った。
 少数ではあったが、彼を見送るアーディティアの神々の前で、ルドラは一度もディアウスを見なかったし、ディアウスもそれは同様だった。
 誰の目から見ても、彼らは儀式的に見送り、見送られているように見えた。

 ルドラが自らの領地に帰ってから数日後、ディアウスもアディティーの神殿を出て天地両神一族の神殿に戻り、それでようやく、全てが元通りになったように見えた。
 ディアウスは事実を知った直後に妹を責めただけで、それ以降は妹が自分の記憶を勝手に消した事について、話をする事はなかった。

 けれどそれ以降、一旦龍宮殿に帰ったルドラ王がアーディティアの領地に訪れるたび、ディアウスは一族の誰もが異を唱えるのを聞かずにアディティーの元を訪れるようになった。
“両神群の今後の事を話し合う場に同席して欲しいと、アディティーに頼まれたので”と、ディアウスは簡潔にその理由を説明し、ルドラ王との交流を激しく反対する一族の声を無言のままに黙殺して、一切聞く耳を持たなかった。
 それまで周りの言う事に盲従するようにしていたディアウスのあまりの変わりようにプリティヴィーを始め誰もが驚いたが、ディアウスはもう二度と一族の言いなりに行動しようとはせず ―― そうした態度を少しも軟化させる素振りを見せなかった。

 兄であり、天地両神一族の長であるディアウスの変化に誰よりも心を痛めていたのは、プリティヴィーだった。
 自分の行動のせいでこんな状況になってしまった。と考えてはいたが、そればかりではない。
 未だにプリティヴィーは、自分の取った行動は基本的に間違っていなかったと考えていた。
 間違っていたのは自分の行動ではなく、兄に知られてしまった事なのだと。

 ただ ―― ただ、プリティヴィーには気になる点があったのだ。

 ルドラ王がアーディティア神群の領地にやって来るたび、日に幾たびも話し合いだと言ってはアディティーの神殿に赴く兄に、ついて行った事があった。
 内心の恐れを隠し(と、天地両神一族の誰もがそう信じ込んでいた)、宿敵であるマルト神群を率いるルドラ王の側近くに行くディアウスを心配している一族の者と共に。
 そこでプリティヴィー以下、一族の者が見たのは部屋の端と端に座って視線も合わせようともせず、必要最低限の言葉のみを交わすルドラとディアウスの姿だった。
 それを見た一族の者達は、やはり無理をなさっているのだ、おかわいそうに。とディアウスの身を案じ、同時に2人の距離の取り方や態度のよそよそしさを見て、安堵もしたのだ。

 しかし、プリティヴィーはその2人の様子を見て更なる不安を覚えた。

 確かに、兄もルドラ王も、殆ど直接言葉を交わさない。視線も合わせない。
 だが見ていて、プリティヴィーはそこに奇妙な違和感を覚えた。

 目を合わせなさ過ぎる。
 会話を交わさな過ぎる。
 2人の間に流されるよそよそしさが、明らかに作り物めいている・・・ ―― 。

 兄に付き添って会合に参加するうち、プリティヴィーが感じる疑惑は確信となり、言葉に出来ないほどの不安を煽ってゆく。

 それに、それだけじゃない。
 ルドラがアディティーの居城にいる間、ディアウスが夜中に何度も部屋を抜け出しているのを、プリティヴィーは知っていた。
 さり気無く兄の自室の警備を増やしてみたり、何やかやと理由をつけて兄の部屋に泊り込んだりもした。
 けれど兄は、ちょっと目を離した隙に、煙のようにどこかから部屋を抜け出して消えてしまうのだ。

 もちろん、プリティヴィーはそのことを誰にも言わなかった。
 こんな事が ―― まさか、と思っている恐れが現実で、さらにそれが公になったとしたら、とんでもない事態になることは目に見えている。
 が、そうかと言ってディアウスに真偽の程を直接問いただす事も、プリティヴィーには出来なかった。
 消しても消しても浮かんでくる、恐ろしくもおぞましい予感が真実であったら ―― 想像をするだけで、舌を噛み切って死んでしまいたいという心地にさえなるのだった。

 目覚めてみると、寝台には自分しかいなかった。

 窓から漏れてくる日の光に顔を顰めながら、ルドラは起き上がる。
 何度経験しても、“部屋に差し込んでくる光によって目が覚める”という状況に慣れる事が出来ない。
 ヴリトラが死に、それによってアスラ神群が消滅してから、マルト神群の領地でも以前よりは太陽を見る機会が多くなったし、日の光を浴びることも多くなった。
 だが、復興された城は以前と全く変わらず黒曜石で固められ、窓もろくにない。
 今では時折言葉を交わすようになった天地両神一族の者から、
「マルト神群はどちらかというとアスラ神群に近い一族だそうですしね」
 などと嫌味を言われる度、怒るどころか、ああ、だからか。などとあっさり色々と納得さえしてしまうルドラなのだった。

 だが今日のこの不機嫌さ(のようなもの)は、唐突に日の光に視界を焼かれた事により生じたものではない。
 それは・・・ ――

「ルドラ王、おはようございます。食事出来ていますけれど、お食べになります?」
 ルドラが起き出した気配を敏感に察したディアウスが、開いた扉から顔を出した。
 何となく憮然とした気持ちで、ルドラは黙って頷く。
 小さく微笑んだディアウスが戸口から姿を消したのを確認してから、ルドラは溜息をついて広げた両手のてのひらを見下ろしてみる。

 今日こそ勝手に寝台を抜け出してゆかないようにと、その身体を抱いていた ―― つもり、だったのだ。
 それなのに、一体何がどうしてこうなってしまうのか、さっぱり訳が分からない。

 そもそも、隣に人が寝ていて、その人物が起き出してゆくのに全く気付かないというのは ―― 戦神(いくさがみ)として、いささかまずい・・・というか、はっきり言って致命的なのではないだろうか?
 彼には気を許しているから・・・という言い訳を自分にするのは簡単だったが、問題はまだ戦が終らない、ディアウスが虜囚のような待遇で自分の元にいた頃からそうだったという点なのだ。

 深い傷を負って臥せっていた所に、いつの間にか彼が入り込んできていたりした事もあった。
 看病されている最中も、一度も彼の行動によって意識が覚醒したりはしなかった。

 つまり、こういう状況は、今に始まった事ではないのだ。
 ただの戦神(いくさがみ)ならいざ知らず、戦神(いくさがみ)がひしめく一族を取り纏める立場である自分が、これでは・・・ ――

「ルドラ王。大丈夫ですか?」
 ふいに声をかけられて慌てて顔を上げると、いつの間にやって来ていたのか、目の前にディアウスが立っていた。
 最早言葉を失い切ったルドラが自分を見上げる、その視線の雰囲気を訝しく思ったディアウスは、首を傾げる。
「・・・私が、何か?」
「・・・・・・。
 いや・・・、別になんでもない」
 と、答えてルドラは立ち上がり、立ち上がったルドラを見たディアウスは微笑み、再び寝室を出てゆく。
 その後姿を見送ってからひとつ溜息をつき、服装を整えている途中 ―― 突然隣室から尋常ではない雰囲気の話し声が聞こえてきた。
 驚き、慌てて寝室を飛び出したルドラは、そこに広がっている光景を見て言葉を失う。

「おはようございます、我が君。ご機嫌はいかがですか?」
 詰め寄るようにディアウスの目の前に立っていたプリシュニーは、その場に飛び込んできたルドラを見てがらりと表情を変え、掴みかからんばかりにしていたディアウスに背を向ける。
 あでやかに微笑みながら自分の首にかけられようとするプリシュニーの両腕を払いのけ、ルドラはプリシュニーを睨みつけた。
「誰の許可があって、こんな所に来ているのだ、お前は」
「日を空けずにルドラがこちらに通い詰めだから、一体どんな所なのかと思って来てみたのよ。やはり来てみて良かった」
 最後、意味深に呟くプリシュニーを忌々しげに見て、
「・・・共の者は?まさかひとりで来たのではあるまい?」
 と、ルドラは尋ねる。
「さあ、どうだったかしら」
 プリシュニーは微笑みながら肩に落ちかかる金髪を強く後ろに払った。
 それはまるで、側にいるディアウスを牽制しているような素振りだった。
「まぁ、それは後々分かる事よ」
「後々?」
「ええ。ここの中庭に降り立った時 ―― あれがアディティーなのかしら、出てきて今日会合があるという話を聞いたもの。もちろん、私が参加しても構いませんわね?」

 否とは言わせない、といった口調でプリシュニーは言った。
 視線の鋭さを緩めずにプリシュニーを睨みつけていたルドラだったが、彼女がこういう言い方をしたが最後、その意志を変えるのは不可能に近い事であると、ルドラは知っていた。
 プリシュニーは少しも笑顔を崩さないまま踵を返し、ディアウスには目もくれずに部屋を後にした。

「壮観!って感じだなぁ、あれって・・・すっげー」

 アーディティア神群の名立たる戦神(いくさがみ)や王、その側近たちが集められた広間の一角の広い部分を、マルト神群の神々が占領するように陣取っている。
 集団の中央部分に座るルドラは、何もかもがうんざりである。という表情を隠そうともせず、部下たちからかけられる言葉を完全に無視していた。

 その様子を少し離れた所から見ているスーリアが、隣にいるヤマに盛んに耳打ちをしている。
「やっぱりああいう光景見るとさ、ルドラ王って格好いいよなぁ。何て言うの?いかにも王様!って感じ」
「お前な・・・」
 側で聞いていたウシャスが、呆れたように言う。
「お前とて、“太陽神”の神名(しんめい)を預かるれっきとした王だろうが。自分が一族を束ねる存在なのだという自覚くらい持ってくれ。頼むから」
「いやー、でも王とか神とか、後付けの冠じゃないか。俺はどう努力しても、天地がひっくり返っても、ああいう王にはなれないよ。そういう自覚はあるよ、たっぷりとね」
「威張るな、そんな事で」
 呆れ果てたようにウシャスの返答するのを聞いて、ヤマは微かに苦笑してから、
「それにしても、嫌な雰囲気だな」
 と、呟いた。
「そうか?いつもあんな感じじゃないか、マルト神群って」
「・・・ではスーリア、あそこにいる神々を知っているか?」
 と、ヤマは聞いた。
 ええと、と呟きながら改めてルドラの周りにいる人々を見たスーリアは、首を横に振る。
「王の側に立っているのが英雄神で・・・あとは四天王のアガスティアと・・・その周りにいるのは・・・」
「恐らく、新たに四天王に選出された神々だろう。その他の者には見覚えがないだろう?」
「うん、確かに」
「あそこにいるのはルドラ一族には珍しい、戦神(いくさがみ)以外の者たちだからだ。マルト神群を纏めているルドラ一族はほぼ戦神(いくさがみ)で成り立つ一族ではあるが、アーディティア神群と同様、それ以外の神がいない訳ではない。
 そしてその者たちは人数こそ少ないものの、皆一様に頭が切れる。戦に出るのはむろん戦神(いくさがみ)だが、マルトの戦術や戦陣を考えているのはあの者たちなんだよ。それがあれだけ揃ってここに来るというのは・・・ただ事じゃない」
「なぁなぁ、あのルドラのすぐ側にいる綺麗な女の人、あれは誰?」
「マルトの母と呼ばれるマルト神群唯一無二の女神、プリシュニーだ。戦神(いくさがみ)でないのに戦神(いくさがみ)以上に重んじられている唯一の存在だ。名前くらいは、聞いた事があるだろう?」
 うん、とスーリアが頷き、周りで聞くとはなしにヤマの話を聞いていた神々が口々に“あれが・・・”、“初めて見たな”などと呟きながら、プリシュニーを見やる。

 当のプリシュニーはアーディティアの神々の視線を集めているのを気に留める様子もなく、ルドラが座る椅子の肘掛にもたれかかるようにして座り、その耳に唇を寄せるようにして何事かを語りかけ続けている。

「“一族の母”とまで謳われるプリシュニーまでここに来るとは・・・それは確かに、尋常じゃないな・・・」
 と、それまで黙っていた、風を司る一族の長であるヴァータが言い、それにヤマが頷いて答えた時。

 後ろに祈祷神ブラフマーナを従えたアディティーとディアウスが、大広間の入り口に姿を現した。