月に哭く

16 : 忠誠の証

「このような遠い場所までご足労頂きまして、痛み入ります、みなさま」

 にこやかにアディティーは言い、マルト神群の神々が投げてくる冷たい視線を物ともせずに柔らかく微笑んだ。

「初めてお目にかかる方が殆どですわね。私が無垢の女神、アディティーでございます」

 そう言ってからアディティーは丁寧に頭を下げたが、ルドラの周りにいる神々は微動だにしない。
 表情を変えず中央部分にいたルドラが不機嫌そうに身じろぎしたのとほぼ同時に、ルドラの横にいたプリシュニーが、
「お話は以前より幾度も聞いております、無垢の女神。私がプリシュニーと申します。お目にかかれて光栄ですわ」
 と答え、次いで周りを見回し、
「あなた方、一体どうしたっていうの。きちんとした礼を尽くせないのであれば、龍宮殿に残っていなさいと言ったはずよね。何なら今すぐに帰ってもよくてよ」
 と、厳しい声で言った。
 プリシュニーに促されてようやく、主だった神々が次々に自らの神名(しんめい)と名前を名乗ったが、その多くの神々がアディティーの斜め後ろに立っているディアウスや天地両神一族の面々を忌々しげに見やる。
 わざとらしいその視線に天地両神一族だけでなく、他の一族の神々も眉をひそめた。
 が、どんな不躾な視線を投げられても表情を少しも変えず、気にも留めていない様子のディアウスを見て、表立った行動には出られず、皆一様に唇を噛むようにして黙っていた。

 そして一通りの挨拶を終えた後、両神群の間で多くの会話が交わされたが、どれもこれも発展性があるものとは言えなかった。
 今こういう状況になれば、事態がこういう流れになるであろうとルドラもアディティーも予測していた。
 だからこそルドラはアーディティア神殿を訪れる際に毎回、小数ではあるものの違う顔ぶれのルドラの神々を連れてアーディティア神殿を訪れ、少しづつでも互いの存在が互いの存在に慣れるように、そう出来るようにと努力してきた。
 ルドラのその想いは勿論アディティーも分かっていて、やってきたルドラ一族の神々とアーディティアの神々が顔を合わせて会話をするような場を設けてきた。
 地道なやり方ではあるが、そういう小さな努力の欠片を積み重ねてゆく事でしか、両神群の関係を改善するのは不可能であろう ―― 事ある毎に意見が食い違っていたルドラとアディティーであったが、その点では両者の見解は重なっていたのだ。

 だが ―― まだ早かった。
 今はまだ、こんな大勢で、しかも名立たる神々が顔をつき合わせて良好で実りある話し合いが出来るような状態ではなかった。

 自分がアーディティアの神々を庇うような言動をとれば、事態が更に悪化の一途を辿る事を誰よりも知っていたルドラは全くものを言おうとしなかったし、アディティーはどんな事を言われてもにこやかにその場を収めようとする、虚しい努力をし続けていた。
 そしてディアウスは明らかな含みを持たせた言葉を投げかけられてもルドラと同様何の反応も示さず、自分の背後にいて、やはり逆上しそうになっている自らの一族の気配を無言で押さえつけていた。

 自らの主張を声高に述べるルドラ一族の神々と、声を荒げないまでも静かな怒りを体内に溜め込んだアーディティア一族の神々の“気”が最高潮に達しそうになった、その時。

 低い水音がして、一族の先頭に立ってアディティーを攻め立てていた若者 ―― 新たに四天王に加わり、その名をタパスと改めたばかりの若者が目を見開く。

“我が一族にとってここは敵地と言っても過言ではない場所であり、そこへ我が王を呼び出して、どうしようと言うのか”と問い質す言葉を途中で途切れさせ、怒りの表情をそのまま、自分に向かって水を浴びせかけた人物の方へと振り返ったタパスの視線の先には、先の戦で唯一生き延びた四天王、アガスティアがいた。

「あなたがたは四天王になって間もないからと黙っていたけれど、もう限界ね」
 と、アガスティアは空になった硝子の椀を手にしたまま言い、新たに四天王に加わった3人を順番に見た。
「敬愛する我が王のお立場を省みずにそのような事を・・・。言っていい事と悪い事があるという事実さえ、分からないの?いい加減になさい」
 落ち着いてはいるものの、反論は赦さないという強い意志を漲らせたアガスティアに睨みつけられ、3人は口をつぐんで頭を下げた。
 そんな3人から視線を外し、アガスティアはアディティーに向き直る。
 が、彼女の視線や態度は余り好意的なものとはいえず、年若い四天王を立場上諌めはしたが、その意見は彼等とそう大差ないという事が見て取れた。
「上品なそちらの一族と違って、我が一族は荒々しい者が多いのです。失礼致しました、無垢の女神。それに ―― 天神も」
 さりげなく視線の色を変えてディアウスを見てから、アガスティアは慇懃な態度でお辞儀をした。
「・・・いいえ、お気になさらず」
 と、アディティーは静かに答えた。
「先の戦で神群内の面々が大幅に変わってしまったのもあって、お互いに頭が痛い事だらけだけですけれど・・・そちらも色々と大変そうですわね」
 身体を起こしてそう言い、アガスティアは目を細めて笑った。
「特に天地両神一族の方々には、これまでの歴史が歴史なだけに色々と思うところがおありでしょうし ―― むろんそれはこちらにも、という事になりますけれど・・・。
 それにそれだけではなく、先ほどから拝見していると無垢の女神さまも天神さまも、前を見ても後ろを見てもご心労の種が累積なさっていらっしゃるようで・・・私から見ていても同情を禁じえませんわ」
「それはどういう意味なのかしら」、とプリティヴィーが我慢も限界、という風情で前に出て言う、「歯の奥に物がはさまったような言い方はやめていただきたいわ」
「それでははっきりと申し上げますけれど」
 プリティヴィーの挑戦的な視線をはねるけるような視線と共に、アガスティアは答える。
「あなた方天地両神一族は、一神群を成してもおかしくないような一族だという自負がおありなのでしょう。以前からそのように聞き及んでいたし、実際、今目の前で見ていてもそういう雰囲気が伝わってくるわ。
 ルドラ神群を統べる我が王ルドラや、アーディティア神群を統べる無垢の女神がいくら両神群の関係を変えようと努力しても、あなたがたは決して私たちを赦さないでしょうし ―― それより何より、あなたがたは内心では無垢の女神を一の神と認めていない。
 そんな状態では、どうあっても事態は上手く行ったりはしないのではと思うのだけれど、いかがかしら、天神?」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
 ディアウスが口を開く前に、ぐしゃりと顔を歪めたプリティヴィーが吐き捨てるように言った。
「あなたがただって、私たち一族を、預知者を認めたりなどしないに決まっているじゃないの。あなたがたのように粗暴で野蛮で、残忍な一族が・・・ ―――― 」
「それ以上言う事は許さない、プリティヴィー」
 大きくはないものの、凛としたディアウスの声が、激しく言い募ろうとした妹の言葉を遮る。
「・・・でも、兄さま・・・!」
「口答えも許さない。いいから黙りなさい」
 いつにも増して厳しい声で妹を諌めてから、ディアウスはゆっくりとアガスティアを見やった。
「・・・お言葉ですが、私は私の一族が一神群となりうるなどと考えた事は一度たりともございません」
「そうかしら」、とアガスティアは鼻で笑うようにして言う。
「もちろん」、とディアウスは穏やかに頷く。
「口で言うのは簡単ですけれど・・・、一族にその意が浸透していると、はっきりと断言出来て、天神?」
「もちろん」
 と、ディアウスは繰り返す。
「アガスティアさまが何故そのような思い違いをなさっておられるのかは分かりかねますが、今も昔も ―― そしてこれからも、私と私の一族の忠誠の全てはアーディティア神群を統べる無垢の女神アディティーに奉げられるものです」
「天神個人にではなく?」
「むろん天地両神一族の頂点に立つ神の神名(しんめい)を預かっている私への忠誠もそこには含まれるでしょう。しかしそれはどの神群も、一族も、同じではありませんか」
「他の一族ならば、そうでしょう、しかし ―― 」
 と、アガスティアが言いかけるのを、
「例え個人的な忠誠の方向がどうあろうと、この私の忠誠の全ては、今私の横にいらっしゃる無垢の女神に奉げるものです」
 と、ディアウスは遮った。
 そして身体の向きを転じて自分の方を見ているアディティーの足元に跪き、真っ直ぐにアディティーを見上げて両手を合わせ ―― ゆっくりと、ゆっくりと、額ずくように頭を下げた。

 そのディアウスの行為はどの神群においても ―― 今は消滅したアスラ神群内においても、“忠誠を示す”というよりも“完全なる服従の意志を表す”行為であり ―― 刹那 ―― 密やかなざわめきが消えなかったその広間が水を打ったように静まり返る。

 アーディティアの長い歴史の中で、その最高神は常に無垢の女神であったが、それはあくまでも表面上という色が濃かった。
 天地両神一族はその規模こそ小さいものの、彼らが持つ類い希なる預知の能力により、アーディティア神群内で他の追随を許さない強大な発言力を有してきた。
 彼らの意志はアーディティア神群の意志であり、時には神群を統べている無垢の女神アディティーすら彼らの意のままに動くという噂さえあった。
 それは決して根拠のない噂話ではなく、言葉にはしないまでも、多くの天地両神一族は自分たちの神 ―― つまり天神が神群随一の神であると考え、信じており、その密やかな信念を知らぬ者はアーディティア神群にはいなかった。

 その天神が自ら膝を屈し、他の一族の神の足元に額づくなど ―― 見ていたアーディティア神群の全ての神々は言葉を失い、ルドラ神群の神々さえも押し黙って、跪き、跪かれる2人の姿を凝視しており ―― そして天地両神一族の神々は一瞬にして顔色を失し、次いでその屈辱的とも言える光景に耐えられず、顔を背ける者もいた。

 そう、アガスティアに言われるまでもなく、ディアウスは分かっていたのだ。
 自分の一族がアディティーの意志を左右する力を有しているうちは、アディティーの、そしてルドラの目標としている場所には永遠に辿り着けないであろう事を。
 アディティーとルドラの話し合いを側で聞きながら、ディアウスは自分がこういう態度を内外に示すのが全ての物事の第一歩になると考えていたのだった。

 沈黙があって ―― 誰より先に動いたのはアディティーで、次に動いたのはそれまで自らの王の態度に倣うかのように頑なに沈黙し続けていたプリシュニーだった。

 足元に跪くディアウスを暫く見下ろしていたアディティーはやがて、ゆっくりとその身を屈め、優しくディアウスの腕を取って彼を立たせた。
 そして何も言わぬまま、ディアウスに向かって微笑む。
 その微笑は色々な想いが複雑に混ざり合ったような微笑で ―― どこか悲しげなアディティーの微笑みを見たディアウスが大丈夫だとでも言うように薄く微笑み返し ―― そこでその一連の行動とやりとりを黙って見ていたプリシュニーが、口を開く。

「正に歴史的とも言える場面に居合わせられて、光栄ですわ ―― ねぇ、ルドラ?」
 そう言って馴れ馴れしく肩を撫でるプリシュニーを、ルドラは鋭い視線で見た。
 が、プリシュニーはその視線を物ともせず、口元に笑いさえ浮かべながら、
「ああでも、今朝方も麗しい天神さまをお近くに侍らせていらっしゃいましたものね、もしかして今の筋書きも全て打ち合わせ済みなのですか、我が君?」
 と、続けた。